瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

『三田村鳶魚日記』(24)

・高松家との関係(1)八重夫人との婚姻届
 義弟の夫人とは昭和7年(1932)の京城訪問時に初めて会ったようです。そしてこれを切っ掛けとして高松家との交際が密になったようで、そのことが実は私が『三田村鳶魚日記』についてやや詳しく確認して置く必要を感じた理由とも絡むのですが、ここで遡って、三田村氏と高松家との関係について整理して置きましょう。
 三田村氏と高松八重との婚姻は、4月16日付(05)にも触れたように、明治文學全集90『明治歴史文學集(二)』所収、杉崎俊夫編「年譜/三田村玄龍」に、「▽大正二年(一九一三)  四十四歳」条に、407頁上段13~14行め、

‥‥。八月十八日、福井縣坂井郡丸岡町谷第四號七番地、/高松新太郎長女ヤヱ(明治十七年九月十一日生)と婚姻屆出。‥‥

と見えています。三田村鳶魚全集』別巻三田村鳶魚著作目録」の大正二年八月条には、497頁下段15行め「高松新太郎長女八重と婚姻。」とあって日がありません。
 日記を見ると、確かに大正2年(1913)の八月十八日(月)条には結婚関係の記述は何もありません。しかしながら、八月十三日(水)条、『三田村鳶魚全集』第廿五巻165頁下段1~9行め、

八重いふ、丸岡侯の先代(今の子爵の祖父にもあるか)/はお借上の事につき自裁せられ、急養子にて一万石の小/大名より婿を取りたり、この婿侯出て老中たり。亦罷む、/歎じて曰く、三度の食を二度にしても尚且老中たらんと、/臣庶遮りて許さず、君家の歳計之が為めに糜す、決して/在職は不可なり云々、面白きはなしらしけれども詳を得/ず。○稲垣氏北堂、同妻女来訪、金沢土産見恵。○共古/翁来話。○書式相違セリトテ婚姻届ヲ戻却シ来ル。○調/息四炷。

とあって、この日、役所から婚姻届が書式不備とて戻されていますから、受理されたのはこれより後と云うことになります。そして再提出したのが2日後、八月十五日(金)条、165頁下段15行め、

‥‥。○中川氏を訪ふ、結婚届再付郵。○/‥‥

とありますので受理されたのは8月18日と云う段取りで良さそうです。杉崎氏もしくは筑摩書房『明治文學全集』編集部が持っていた材料を、朝倉氏と中央公論社三田村鳶魚全集』編集室は持っていなかった、と云うことになるのですが、何とか引き継げなかったものでしょうか。
 それはともかく、ここで注意されるのは八重夫人が語った幕末の丸岡藩について、です。今の子爵は有馬純文(1868.正.三~1933.1.5)、その祖父に当たるのは越前丸岡藩五万石の七代目有馬温純(1829~1855.四.二十五)、二十七歳で死去していますがネット検索の限り「自裁」とはされていないようです。その後を、播磨山崎藩一万石の第八代本多忠鄰(1811~1874.1.12)の三男が養嗣子となって八代目有馬道純(1837.九.九~1903.5.24)として家督を相続します*1文久三年(1863)に若年寄から老中となりますが翌元治元年(1864)に辞任しています。――『三田村鳶魚全集』別巻「人名索引」に、ここに挙がった諸侯の名は見えません。
 稲垣氏や山中共古については別に触れる機会もあるでしょうから今回は割愛します。最後の「○調息四炷」については、江戸城のトイレ、将軍のおまる 小川恭一翁柳営談に、三田村氏が普段、328頁12行め「必ず正座して胸を張」っていた理由を説明した箇所を抜いて置きましょう。329頁1~6行め、

 なぜ胸を張るかというと、翁は「調息*2」という健康法を信じておられたから/です。二つ息を吸い込んで、一つスーッと大きく吐き出す。それをやると肺活量が/きちっとするということのようでした。先輩から教わった健康法だそうで、暇がある/と、あるいは疲れると調息の法だといってやっておられました。日記に、一炷とか何/炷とあるのは、この調息の時間を計るためで、お線香の数です。私にも実行しろと目/の前でやらされ、いまでも深呼吸のたびに思い出します。


 この頃の日記には「○調息三炷」などとあるので良いのですが、昭和期になると小川氏の言うように「○一炷」だけになっているので、何のためにそんなことをして、それをわざわざ日記の各日条の末に記載しているのか分からないのですが、これによって「調息」の時間を計っていたことが分かります。――ストップウォッチ等のない時代、線香で時間を計っていたと云うのは、2012年10月4日付「四代目桂文團治の録音(1)」に触れた上方落語「立ち切れ線香」でも重要な要素として使われていますが、一般的なことであったのです。(以下続稿)

*1:この人は三代目有馬孝純(1717.十二.二十四~1757.二.八)の次男で、婿養子として播磨山崎藩の五代目を継承した本多忠可(1741~1794.閏十一.三十)の曾孫、すなわち有馬温純も有馬道純も、ともに血筋の上では有馬孝純の男系の玄孫と云うことになります。

*2:ルビ「ちようそく」。