瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

『三田村鳶魚日記』(27)

・高松家との関係(4)高松龍吉①
 昨日の続き。
 四月二十一日(月)条と四月二十二日(火)条に、152頁下段12・15行め「〈着信〉高松竜吉。」と添えてあるのが、八重夫人の弟・高松龍吉の初出のようです。
 以後しばらく、高松龍吉とは手紙の遣り取りのみで、なかなか直接会う機会が持てなかったのですが、これは三田村氏が八重夫人と結婚したとき、この義弟は既に朝鮮に渡っていたからなのでした。
 高松龍吉の名は「朝鮮總督府官報」にしばしば見出すことが出来ます。「朝鮮総督府官報活用システム」によって「高松龍吉」を検索するに、まづ明治期の第五百三號(明治四十五年五月三日・二七頁)の「○敍任及辭令」には「○明治四十五年五月一日」条に、二四頁上段

任朝鮮公立普通學校訓導  〈福井縣坂井郡平章尋常高等小學校訓導/兼福井縣坂井郡丸岡商業補習學校訓導〉  高 松  龍 吉


 平章尋常高等小學校は現在の坂井市立平章小学校で、丸岡藩の藩校平章館の後身です。
 以下、高松龍吉の朝鮮でのキャリアを「朝鮮總督府官報」から拾って置きましょう。
 大正期の第四十七號大正元年九月二十六日・一九九~二一六頁)の「○敍任及辭令」には、二〇六頁下段「○大正元年九月二十四日」条に「兼任朝鮮公立簡易實業學校訓導   朝鮮公立普通學校訓導  高 松  龍 吉」とあります。
 第二百四十二號(大正二年五月二十三日・一九九~二〇五頁)の「○敍任及辭令」には、一九九頁下段「○大正二年五月二十一日」条に「任京城高等普通學校訓導    朝鮮公立普通學校訓導  高 松  龍 吉」とあって「給九級俸」を添えてあります。
 第五百八十八號附録(大正三年七月十七日・七頁)は「○大正三年六月三十日」付の「○敍任及辭令」ですが、四頁上段「給八級俸    京城高等普通學校訓導  高 松  龍 吉」と見えています。
 第六百七十四號(大正三年十月三十日・四五九~四七五頁)の「○彙報」の「○調査及報告/學 事」の「○各道朝鮮人敎員夏季講習會狀況」に、四六四頁「全羅北道」の「全州」で「自八月二十一日/至八月三十日 」に「複 式 教 授 法」を「 京城高等普通學校訓導    坂 東 米 八」が、そして「圖 畫 教 授 法」を「 同             高 松 龍 吉」が担当していることが見えます(講習員と經費は省略)。
 第七百八十六號(大正四年三月十九日・二六五~二七九頁)二七二頁下段「○敍任及辭令」の「○大正四年三月十八日」条に 「任朝鮮公立普通學校訓導   京城高等普通學校訓導  高 松  龍 吉」とあります。
 第七百八十八號(大正四年三月二十三日・二九七~三一一頁)の「○敍任及辭令」欄の最後、三〇〇頁上段に「正 誤」として「三月十九日本欄高松龍吉ノ發令日附十八日ハ十五日ノ誤」とあって「八」の右傍に黒丸、「五」の右傍に白丸が打たれています。
 第八百二號(大正四年四月九日・一〇九~一二八頁)の「○敍任及辭令」の「○大正四年四月七日」条、一二三頁上段「兼任朝鮮公立簡易實業學校訓導   朝鮮公立普通學校訓導  高 松  龍 吉」と見えています、
 第千百八十六號附録(大正五年七月十七日・八頁)は「○大正五年六月三十日」付の「○敍任及辭令」ですが、六頁下段に「給七級俸」として「朝鮮公立普通學校訓導  高 松  龍 吉」が見えています。
 第千二百三十三號(大正五年九月十一日・一三一~一五二頁)の「○彙報」の「○調査及報告/學 事」の「○實業學校敎員講習會狀況」の「修了證書授與者職氏名」の「第二組 (四十二人)」中に、一四四頁下段「全羅北道 金堤公立簡易農業學校長   高 松 龍 吉」と見えています。
 第千七百四十二號(大正七年五月二十九日・三九一~四〇五頁)の「○敍任及辭令」の「○大正七年五月二十七日」条、三九四頁下段に「任朝鮮總督府道視學   朝鮮公立普通學校訓導兼朝鮮公立簡易實業學校訓導 高 松 龍 吉」と見えます。
 第千九百三十一號(大正八年一月十七日・一四五~一六五頁)の「○敍任及辭令」の「○大正八年一月十五日」条、一五四頁下段「小學校及普通學校敎員試驗臨時委員ヲ免ス」とされた連名に「朝鮮總督府道視學 高 松 龍 吉」が見えます。
 第二千百七號(大正八年八月十九日・一九一~二〇五頁)の「○敍任及辭令」の「大正八年八月十五日」条の「依願免本官」として、一九四頁下段「朝鮮總督府道視學 高 松 龍 吉」が見えます。
 すなわち明治45年(1912)5月1日の朝鮮公立普通学校訓導から始まって、大正8年(1919)8月15日に朝鮮総督府道視学を辞任するまで、朝鮮で教育関係の仕事に従事していたことが分かります。(以下続稿)