瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

『三田村鳶魚日記』(30)

・高松家との関係(7)叔父の死去
 大正3年(1914)、一月二十七日(火)条、182頁下段2行め「西大久保二三〇より東大久保一へ転居。○‥‥」とあって、三田村氏は東京府多摩郡大久保町の内で転居しています。
 しばらく高松家の人々は姿を見せなかったのですが、二月二十六日(木)条、184頁下段14~15行め「‥‥。○八重の叔父大患にて使价来り、/午後八時頃小石川に往く。○‥‥」と叔父の大病のことが見えています。二月二十八日(土)条、185頁上段5~6行め「‥‥。○午後八重帰宅、夜に入り危篤の報あり、又々差遣す。」とあります。
 この叔父の名前が分からないのですが、八重夫人が帰宅した日、三月二日(月)条、185頁上段15~16行め、

今木竜也氏今午前二時死去のよし申来る。○今給藜に香/資持たせて遣す。○八重は夕刻帰宅す。○調息三炷。

とありますので、今木龍也という人だったようです。
 三月五日(木)条、185頁下段6~7行め「‥‥。○蒲田/安泰寺に至り、志道軒の墓を訪ふ。これは浅草金剛院墓/所移転のためここにあるなり、‥‥」との箇条に続いて、11~13行め、

・・‥。○梅屋敷見物、高松氏に至る。○鮨屋が東京に行きたりとて食物二/品もなし、田舎らしき処なかなかよろし。

とある高松氏は、八重夫人の実家ではないかと思うのですが、昨日引いたように大正2年(1913)12月7日に新宿に転居したようです。そうすると安泰寺・梅屋敷と同じく東京府荏原郡蒲田町にいるらしいのが不審です。八重夫人とは別の高松氏なのでしょうか。それとも「新宿へ移居」した「高松の人々」が、八重夫人の実家とは別の高松氏なのでしょうか。
 三月六日(金)条、185頁下段15~16行め「‥‥。○八重の叔母坂上夫人過訪。○‥‥」とあるのは、二月二十六日条「八重の叔父大患にて」とある叔父の夫人と思いたいところなのですが、どうでしょうか。
 日記には当人には分かっていることを書かないので、却って近しい人々のことが良く分からないのです。(以下続稿)