瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

『三田村鳶魚日記』(31)

・高松家との関係(8)高松龍吉②
 その後も、みさをはしばしば三田村家を訪ね、また三田村氏に連れられ姉とともに行楽地に出掛けたりしておりますが、これについては改めて記事にすることとしましょう。
 さて、八重夫人の弟、みさをの兄の高松龍吉は、5月22日付(27)に見た通り、明治45年(1912)5月以来、朝鮮公立普通學校訓導として朝鮮半島に在りましたから、大正2年(1913)の八重夫人との結婚後もしばらく、三田村氏と会う機会がありませんでした。〈着信〉が五月八日(木)条、五月二十七日(火)条、六月十二日(木)条、八月二十日(水)条に、〈発信〉が六月二十九日(日)条に見えるのみです。
 大正3年(1914)の日記には〈着信〉と〈発信〉を別記していないので、高松龍吉から夏季休暇に上京する旨伝える手紙が来ただろうと思うのですが、その記述はありません。
 七月二十四日(金)条、197頁下段2~3行め「‥‥。○高/松竜吉氏、正午新橋着のよしにて、八重迎へに行く。」とあります。東京驛の開業は12月20日なので東海道本線の終点は新橋驛です。
 そして、七月二十五日(土)条、197頁下段5行め「‥‥。○夜、高松老母、同竜吉、同操来話。○‥/‥」、七月二十八日(火)条、197頁下段12行め「高松竜吉氏、八重、操ト小柳ニユキ、蘭麺ヲ喰フ。○‥‥」と、高松龍吉・操兄妹と会っています。
 八月一日(土)条、198頁上段2~4行め、

涼む積りで井頭弁天に往く、憩ふべき亭榭なし、山口観/音ならばと思ひ、東村山の停車場に乗付け聞合せしに、/案外の様子に思付きて急に水戸に向ふ。○‥‥


 井の頭辨天(東京府北多摩郡三鷹村)から西武鐡道の東村山驛(東京府北多摩郡東村山村)までの移動は國分寺驛(東京府北多摩郡國分寺村)での乗換えでしょう。山口観音(埼玉縣入間郡山口村)は今は西武狭山線西武山口線の終点西武球場前駅から500mほどのところですが、当時は集落から離れた丘陵地でした。
 八月二日(日)条、198頁上段6~7行め、

水戸の旅宿を出て、那珂川汽船に投じ、湊町に来り、久/久にて加藤老爺に逢ひ、平磯湊館に入る。○‥‥

と、8月1日は水戸の旅館に泊まり、那珂川を汽船で下って河口の茨城県那珂郡湊町に至り、8月2日から茨城県那珂郡平磯町の湊館に滞在します。8月3日は磯崎(茨城県那珂郡平磯町)に遊び、八月五日(水)条、198頁上段13~14行め、

平磯を出て、水戸好文亭を見る、夜間入京、此行八重を/具す。○‥‥


 8月6日には政教社に出社、そして八月七日(金)条、198頁下段1行め、

竜吉氏来り告別、本日上程、岳母と同行帰住。○出社。/○‥‥


 2年余りを過ごした朝鮮で生活の安定を得たことで、母を連れて行くこととしたようです。そして、八月八日(土)条、198頁下段5行め、

・・‥。○今夜より操女来栖。

とあって、みさをはこのときから三田村家に同居するのです。(以下続稿)