・田辺聖子『私の大阪八景』(10)
タヌキ先生の確認で長くなったが、6月30日付(188)の続き、少し飛ばして、『全集』第一巻31頁5~19行め(長篇全集218頁上段3行め~下段1行め・岩波現代文庫34頁4行め~35頁5行め・角川文庫(改版)37頁8行め~38頁7行め)を見て置こう*1。
「今書いていたものを、ここへもって来なさい」
トキコはしぶしぶ持って出た。
「皆へもみえるように向こうむいて」
トキコは両肘*2をつっばってノートをみせた。
「天下一品のぼうけん小説 !! 」
と、そこには書いてあった。
みんな笑った。トキコは山中峯太郎*3の小説がすきでちょ]いちょいまねるのである。
「よんでみい」
と先生は思いなしか、口をゆがめていった。
すてきな装飾をほどこした大きい字で、ノートいっぱい]にトキコは書いていた。
きょうふの赤マント !! *4
その横にさし絵も描いてある。キバをむいて角*5を出した赤]マントを、色鉛筆で彩色/して|線をひっぱって矢/印をつけ]*6「福島小学校、一階便所にこつぜんとあらわる」と書/いて]いた。
「みんなにみせい」
と先生はいった。トキコがまたノートをむけると、男生]徒も女生徒もひっくりかえ/って|笑った。
この「民のカマド」は6月25日付(183)に見たように、主人公(≒田辺氏)が小学6年生のときのことを描いているのだが、担任の教師は6月27日付(185)及び6月30日付(188)に見た、田辺氏の小学5年生・6年生のときの担任とは別人である。モデルは昨日まで見て来た小学4年生のときの担任であろう。
小学4年生の頃の田辺氏は7月1日付(189)に引いたように授業中に「教科書を拡げるふりをして小説を読んでばかりいた」ので、まだ小説を書いてはいなかったようだ。それでは小学6年生の田辺氏は授業中に小説を書いていたのであろうか。しかし、6月27日付(185)に見たように「いかにも公平でさっぱりと、教えかたも明快」な担任だったせいか「にわかに私は勉強が好きになったのである」とのことだから、授業中にサボっていたとは思いがたい。
そうすると、これは小学6年生のときの「赤マント流言」のイベントに、小学4年生のときの担任を過去から、そして小説執筆に熱中し始めた女学校進学後の自分を未来から連れて来て掛け合わせ、このイベントを個人的に印象深い、ちょっとした事件へと再構成して見せた、と云うことになるのではなかろうか。
私も小説の真似事をして遊んだ経験があるから、この、本来出会うことのなかった人物や事件を組み合わせて見たらどうなるか、と云う愉しみ、それがしばしば予想しなかった膨らみを生ぜしめて書いた当人でも驚かされることなんぞ、それなりに分かっているつもりなのである。
但し赤マント流言の骨子は、昭和14年(1939)当時、大阪で小学生・中学生・女学生だった、「民のカマド」初出時に30代だった人たちなら皆知っていることだから、リアリティと云う観点からしても(共通理解の対象にならない馬チャンやタヌキ先生と違って)そう違えて書いてはいないであろう。
それでは次回、トキコの書いた物語の本文を見て行くこととしよう。(以下続稿)