瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

赤いマント(200)

黒田清『そやけど大阪』(3)
 昨日の続き。
 滝川小学校の同窓会については、まづ第二章の10節め「昭和十年代の天満を地図で ”再現” 」の冒頭、前回引用した箇所の前の段落に、99頁11~12行め、

 九月はじめの日曜日、小学校の同窓会があった。場所は天満天神の前の料亭「相生楼」。玄関に/「川端康成生誕地」とある。

とあって、これは平成4年(1992)9月6日(日)、どのような同窓会なのかと云うと、100頁10~18行め、

 さて、その同窓会だが、名前は「芳友会」という。米田芳信という先生の名前からとってある。/米川先生は七十九歳、まだお元気そのものだ。一九三七(昭和十二)年から二年おきに四九(同二十四)年まで七回卒業生を出しておられる。
 集まったのは四十人くらい。一番上は七十歳に近く、私たち昭和十八年卒業組は、六人出席し/た。私たちの次の組は、卒業前に先生と一緒に滋賀県への疎開を経験しているから、親密感はひ/ときわ強いようだ。いずれにせよ、一番若い組でも五十歳をとっくに超えている。
 私たちの組は、一昨年、還暦を迎えるというので、先輩後輩から赤いハンカチをプレゼントさ/れている。今回はつぎの学年が還暦だ。当分は二年ごとに開かれると思っていたが、来年は先生/が八十歳だということで、傘寿の祝いをすることになりそうだ。【100】

と云う訳で、昭和十二年卒業組を何年生から担任したのか分からないが、以後は5年生・6年生の2年間を担任して、米川先生は大正2年(1913)生だと思われるから20代の前半から30代の半ば過ぎまで滝川小学校に勤務していた、その先生を中心にした同窓会なのである。
 同じ教師が長く同じ学校に勤めていたから可能なので、私の小学生時代にはそんなに長く同じ学校に居続ける先生はいなかったから、こういう集まり方は不可能である。それ以前に、小学校の関係者(中学も高校も)とは全く音信不通になってしまった私は、同窓会をやっているのかどうかも分からないのだけれども。
 そして翌平成5年(1993)4月に、第三章の18節め、181頁2行め~183頁10行め「匂いの記憶が町並みを浮かばせる」の冒頭、181頁3~6行め、

 昨年の九月、小学校の同窓会があり、そのことを書いたが、四月十八日の日曜日、また同じ同/窓会があった。大阪市立滝川小学校で米田芳信先生に教えられた卒業生の集まりで「芳友会」と/いう。先生が八十歳の傘寿を迎えられるというので、卒業の時に受け持って頂いた者たちが集ま/って開いたのだ。

と云うことになり、そこで、181頁14行め~182頁2行め、

 二年上の浅野桂子(旧姓渡辺)さんと、一番若い世代の川口久子(旧姓八木)さんが、当時の近/所の地図を持ってきてくれた。昨年会った時に、私が昭和十年代の近所の地図を作るんやと言っ【181】ていたからだ。あのあと、何人ものかたから記憶をたぐって書いた地図を送ってもらっていて、/早く作業を進めたいと思っているのだが……。

と、先に引いた第二章の10節めの題にもなっていた「昭和十年代の天満を地図で ”再現” 」の実例を見て、往時の街並みに思いを馳せ、そして節の末尾を、183頁8~10行め、

 夕方になると町にやってくる紙芝居にも匂いがあった。あの自転車の荷台に積まれた物入れの/古びた引き出しから酢昆布の匂いや、甘い飴の匂いが飛び出してきた。「タダ見とちゃうでぇ」と/言って昆布をしゃぶって紙芝居を見ながら、心が満ち足りた日々だった。

と締め括っている。そして、これが次の節の赤マントに繋がるのである。(以下続稿)