瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

赤いマント(201)

黒田清『そやけど大阪』(4)
 昨日見た、第三章の18節め「匂いの記憶が町並みを浮かばせる」に述べられていた平成5年(1993)4月の同窓会のことは、19節め、183頁11行め~185頁「紙芝居の街、郷愁の赤マント」に続くのである。
 前節の最後の段落を受けて、183頁12行め~184頁1行め、

 紙芝居は、昔の街には欠かせないものだった。
 紙芝居のおじさんは、自転車で街頭を回り、いつも決まった場所に車を止めて、子供たちを集/めた。時刻は子供が集まりやすい午後三時から四時ごろだった。車や人の往来が多い所では落ち/着かないから、おじさんは街の中の静かな場所を選んでいた。【183】
 私の住んでいた天満界わいでは、浜筋から入った土道の朝日町の角っこに決まっていた。

と、自分たちの親しんでいた紙芝居について述べ、続けて ”タダ見” や当時紙芝居が盛行した背景、語り口や切場などのテクニック、そして衰退について述べて次のように纏め、さらに話を赤マントへと持って行くのである。184頁15行め~185頁4行め、

 紙芝居は、一つの文化だった。多くの子供たちは、その影響を受けて育った。
 紙芝居のおじさんが帰ってしまうと、街には夕暮れが迫ってきた。
 そのころの街は明かりが少なくて、夜分は子供には怖くて歩けなかった。
 いつまでも外で遊んでいると「子とり」が来ると言って脅かされた。子とりは一人で遊んでい【184】る子供をさらって、どこかに売り飛ばしてしまうということを、ほとんどの子供は親から言われ/て信じていた。「子をとろ子とろ」というわらべ歌や遊びもあった。
 やはり同窓会に出席していた大村和男君は「赤マント」も紙芝居から広がったんやと言い出し/た。それからひとしきり、赤マントの話になった。


 この、大阪では紙芝居から赤マント流言が広まった、と云うのは2013年10月25日付(004)に引いた加太こうじ『紙芝居昭和史』の説明と合致する。この「昭和十五年の赤マント事件」とする加太氏説には、朝倉喬司が『現代民話考』等を根拠に「十五年というのはいかに何でも遅ればせすぎる」と批判していたのだが、私は2013年10月24日付(003)に考証したように『現代民話考』の示す時期の方が間違っていることを確認していた*1から朝倉氏の批判には同調出来なかったものの、やはり時期の間違っている加太氏説にも賛成出来ずにいたのだが、2014年2月13日付(113)に引いた「大阪朝日新聞昭和14年7月8日付(7月7日夕刊)の記事「赤マント/やっと突きとめた正体/紙芝居の物語が流言の源だつた」及び2014年2月14日付(114)に引いた「大阪毎日新聞昭和14年7月8日付朝刊の記事「正体は紙芝居 !? /謎解けた"赤マントの怪人"」によって、この件については2014年2月15日付(115)に述べたように加太氏が1年記憶違いをしていたことが明らかになったのである*2
 大村氏、そして黒田氏が問題になった紙芝居「不思議の国」を見たのかどうか、それは分からないが、この件については2014年11月4日付(142)に引いた「教育紙芝居」第二巻第九号掲載の兼田祐吉「赤マント異変」によれば、7月7日には(東京と同じく)ラジオ放送もあった訳だから、大村氏は当時、赤マント流言の原因は紙芝居であったことを報ずる新聞記事を大人が読むのを聞き、或いはラジオ放送を一緒に聴いて何となく記憶していて、このように主張したのだと思われるのである*3。(以下続稿)

*1:7月22日追記】「を確認していた」を追加。

*2:7月22日追記】「のである」を追加。

*3:『紙芝居昭和史』を読んで積年の疑問が解けて、と云う事情であった可能性もあるけれども。