瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

赤いマント(202)

黒田清『そやけど大阪』(5)
 第三章の19節め「紙芝居の街、郷愁の赤マント」の続き、185頁5~14行め、

 小学四、五年生のころだったか。学校の新館(木造校舎でない木造モルタル張りの校舎をそう呼んだ)の便所に赤マントがいるとか、隣の松枝小学校まで来ていて、もうじきこちらへ来るという流/言が学校内を毎日のように行き交った。*1
 女の子ならずとも、正直言って私も、一人トイレに行けなかった。
 赤マントは、紙芝居という媒体が全国に広げて行ったのだろうか。いや、あれはアメリカのス/パイやったんやとか、洋風の子とりやったんやとか、シルクハットかぶってなかった?とか、い/ろんな説が出た。憲兵の奥さんやったんとちゃう?という珍説も出た。
 もともと実態はなかったのだ。みんなが自分の小学生時分に作っていた勝手なイメージで話し/ていた。しかしなぜか、私もほかの友人たちも、赤マントを憎んでいなかった。それどころか赤/マントに郷愁を感じているフシがあった。


 前回確認した新聞記事等から、大阪の赤マント流言の時期は昭和14年(1939)6月から7月に掛けてと見当が付けられるから、「小学四、五年生」ではなく黒田氏が小学3年生のときのことになる。「みんな」とは7月12日付(200)に見たように、滝川小学校卒業時に米田芳信先生に担任してもらっていた卒業生たちの集まり「芳友会」の、平成5年(1993)4月の米川先生傘寿の祝いに出席した人たちである。参加人数は示されていないが、前年9月の昭和20年(1945)卒業の組の還暦祝いの会では「四十人くらい」だったから、もう少し多かったのではないか。
 出席者の昭和14年(1939)7月当時の(進学しているとして)学年と、生年の年度、平成4年度末の年齢、それから平成30年度末の年齢を示して置こう。

昭和12年(1937)卒業生 中学・高女3年生 大正13年 68歳 94歳
昭和14年(1939)卒業生 中学・高女1年生 大正15年度 66歳 92歳
昭和16年(1941)卒業生 小学校5年生 昭和3年 64歳 90歳
昭和18年(1943)卒業生 小学校3年生 昭和5年 62歳 88歳
昭和20年(1945)卒業生 小学校1年生 昭和7年 60歳 86歳
昭和22年(1947)卒業生 未就学児 昭和9年 58歳 84歳
昭和24年(1949)卒業生 未就学児 昭和11年 56歳 82歳

 昭和14年の赤マント流言に滝川小学校で接したのは④黒田氏の前後③~⑤の代で、⑥⑦が赤マントの話を聞いたとすれば、それは滝川小学校の便所に居残った(?)残党みたいな奴に接したことになる。①②はそれぞれ進学先で接している(進学しなかった人もいるだろうけれども)。なお、田辺聖子7月3日付(191)等に見たように小学6年生、芳友会で云えば②と③の間に当たる。
 それぞれの代で、どのような話になっていたのか、細かく知りたいところだが、後1週間程で黒田氏の19回めの命日(特に法要は行わない二十回忌)になる。小学生として流言に接した人たちも今や80代後半以上である。これだけでも背景がある程度分かる形で記録し発表してくれたことに感謝して、次回、黒田氏が纏めて示している流言の内容について確認し、一区切り付けることとしたい。(以下続稿)

*1:ルビ「/まつがえ/」。