瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

田中貢太郎『新怪談集(実話篇)』(02)

・丸山政也・一銀海生『長野の怖い話 亡霊たちは善光寺に現る』(1)
 それでは、9月28日付(01)に続きで、私が本書を思い出す切っ掛けとなった、丸山政也・一銀海生『長野の怖い話 亡霊たちは善光寺に現る123~125頁「三十一 山で撮影した写真 大町市及び木曽郡」について、確認して見よう。
 この話の典拠が9月27日付「青木純二『山の傳説』(03)」に序でに挙げて置いた、本書の改題本、河出書房新社版『日本怪談実話〈全〉』の【190】「写真に映った登山姿」と【191】「御嶽登山の記念写真」なのである。
 まづ【190】写真に映った登山姿(278頁15行め~279頁14行め)を、丸山氏のリライトと比較しつつ検討して見よう。以下、本書からの引用を〈 〉で、丸山氏からの引用を《 》で括って示すことにする。
 〈昭和八年の夏〉のことで、丸山氏は西暦を添えている。まづ気になったのは《東大阪市の大学の学生》としていることで、《昭和八(一九三三)年》当時、現在の東大阪市に大学があっただろうか、と思いつつ本書を確認するに〈大阪商科大学の学生〉とある。昭和42年(1967)成立の《東大阪市》を持ち出しているのは、現在の地名として良いとしても、肝腎の大学を戦後開学した大阪商業大学大阪府東大阪市御厨栄町)と取り違えている。〈大阪商科大学〉は現在の大阪市立大学だから「大阪(市)大学生」で良い。〈大阪市の樟蔭女学校の朝輝教授〉を《大阪市にある女子大の教授》としているのは、私にはやや抵抗があるが戦前の学制に馴染まない現在の怪談読者への配慮であろう。教授とあるから樟蔭高等女学校ではなく樟蔭女子専門学校の教員で、ちなみに樟蔭女子専門学校は田辺聖子の母校である。偶然なのか、樟蔭学園大阪商業大学の近くに校地があり《大阪市》ではなく、現在の東大阪市(菱屋西)なのである*1。尤もこれは、丸山氏ではなく田中氏の誤りなのだけれども、これも「大阪の樟蔭女学校の‥‥」として置けば良いであろう。
 朝輝記太留*2(1878.5.14~1938.5.28)の経歴は、廣兼志保・木原成一郎「朝輝記太留(1878-1938)の米国体育視察と行進遊戯教材の普及に関する研究」(「スポーツ教育学研究」Vol.32, No.1(2012年11月・日本スポーツ教育学会)19~31頁)の22頁「表1 朝輝記太留の略年表」に詳しい。大正7年(1918)4月から樟蔭高等女学校の体育教員、大正15年(1926)4月、樟蔭女子専門学校設立と同時にその体育主任教授に就任している。日本山岳会会員で、国立国会図書館サーチで検索するに、大正期の「山岳」誌に寄稿している他、昭和8年(1933)の「ケルン」10月号に「劔岳の女子集團登攀」を寄せていることが注意される。
 丸山氏は場所を《大町市》としているが、槍沢の雪渓の可能性もあるから「松本市」かも知れない。
 丸山氏の本文で気になるのは、124頁1~3行め、

‥‥、/教授は首をひねるばかりだった。
 ある日、教授の家に顔を出したので、その話を伝えて写真を見せたところ、友人は眼を/丸くして、

としているのは端折り過ぎだろう。すなわち2~3行めに、

 ある日、友人が教授の家に顔を出したので、教授はその話を伝えて写真を見せたところ、/友人は眼を丸くして、

と、2箇所加筆して見たが、1つめの「友人が」は、ないと記述者本人のことのように読めてしまう。2つめの「教授は」はなくても良いだろうけれども。
 本書では、279頁7~8行め、

‥‥。教授が不思議な謎に悩まされている時、友人が遊びに来たので、その話をして印画を見せ/たところで、友人が眼をみはった。

となっていた。
 【191】御嶽登山の記念写真(279頁15行め~280頁5行め)は元々要約のようなもので、特に問題になるような箇所はないが、本書には丸山氏が省略している話の出処が示されている。すなわち、末尾(280頁4~5行め)に、

‥‥。この話は松井桂陰氏の話で、筆者は松井氏からその写真/を見せられた。

とある。松井桂陰(本名慶一、1904~?)は観相家で昭和50年代まで著書が刊行されている。(以下続稿)

*1:10月6日追記】学校が近くだったから顔見知りだった、と云う筋が引ければ面白かったのだがそうではなく、大阪の登山家として〈大阪商科大学の学生〉と〈朝輝教授〉は面識があったのであろう。

*2:読みは「あさひ・きたる」。