瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

「木曾の旅人」と「蓮華温泉の怪話」拾遺(133)

・青木純二の経歴(2)
 先行研究で、青木氏の経歴について最も充実した調査結果を示しているのは、10月15日付(132)に触れた、牧野陽子(1953生)の論文によって批判された、遠田勝(1955生)の次の本である。
・遠田勝『〈転生〉する物語――小泉八雲「怪談」の世界2011年6月30日初版第1刷発行・定価2600円・新曜社・266頁・四六判上製本

〈転生〉する物語―小泉八雲「怪談」の世界

〈転生〉する物語―小泉八雲「怪談」の世界

15~129頁「第一部 旅するモチーフ」は、15頁(頁付なし)扉を除いて、16~129頁「小泉八雲と日本の民話――「雪女」を中心に」と題する長い1篇で、257~259頁「あとがき」を見るに、258頁3行め「書き下ろし」である。なお、237~256頁「注」の、237頁2行め~245頁15行めが「小泉八雲と日本の民話」で(74)項ある。
 この「雪女」の話に青木純二『山の傳説』も、杉村顕『信州の口碑と傳説』も絡んで来るので、本筋の方にも触れるつもりだけれども、差当り青木氏の経歴に触れた部分を見て置くことにしよう。すなわち、16頁2行め~47頁6行め「一 白馬岳の雪女伝説」の7節め、32頁11行め「いたずら者の青木記者」と題して、まづ以下のように前置きしている。32頁12~15行め、

 青木純二の経歴については、これに触れた文献が一点しかなく(16)、それを読んでも不明な点が多い/のだが、青木の二冊の単行本の序文や、大正末から昭和初期にかけての『新聞及新聞記者』『日本/新聞年鑑』などの年鑑類の、該当年度の記載事項をもう一度調べなおしてみると(17)、おおよそ以下の/ようなことがわかる。


 注はそれぞれ読点の前の字の右にルビと同じように附されているが、再現出来ないので当該文字の次にやや小さくして添えた。
 遠田氏が気付いた「一点しかな」い先行研究については次回触れることにして、今は32頁16行め~33頁8行め、遠田氏が知り得た経歴を見て置くこととしよう。

 青木は、一八九五年六月十日、福岡市外千代町に生まれた。学歴としては「高等商業学校3年ま【32】で」としか書かれていない。その後、各地で新聞記者をしているのだが、勤務した社名を各年度ば/らばらに報告しているので、いつ、どこで、どの新聞社に勤めたのか、正確な年度や順番がわから/ない。しかし、おそらくは福岡、北海道、新潟の順に任地をかえ、福岡毎夕、函館日日、高田新聞、/新潟毎日、新佐渡主筆などを勤めたのだろうと思われる。一九二二年度の記載には、高田新聞社会/部に在籍とあり、一九一九年十一月に入社とある。一九二四年度の記載からは東京朝日新聞記者高/田支局主任となり、ほぼそのままで、一九二九年度版(一九二八年発行)までつづき、それ以降、/記者名鑑に名前が見えなくなる。したがって一九三〇年の『山の伝説』出版前後にはすでに新聞記/者をやめていた可能性もある。


 そして以下しばらく、改名や著述について若干の補足がある。これらも次回以降検討することとしよう。
 さて「福岡市外千代町」は、青木氏が生まれた明治28年(1895)当時は福岡縣那珂郡千代村、御笠川の対岸が博多(福岡市)である。大正元年(1912)10月に町制施行して筑紫郡千代町となり、昭和3年(1928)5月に福岡市に編入されている。ほぼ、現在の福岡県福岡市博多区千代である。
 これ以降の足取りはつかめなかったようだが、年鑑に名前が出なくなったのは退社したからではなく、東京朝日新聞には戦時中まで勤務していたことが確認出来る。或いは戦後の定年まで勤務していたかも知れない。それほど明確に出来ている訳ではないが、私は今のところ、昭和30年(1955)までの動静を確認している。(以下続稿)