瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

「木曾の旅人」と「蓮華温泉の怪話」拾遺(140)

・青木純二の経歴(09)『全國新聞通信網大觀』
 ここまでが阿部敏夫によって指摘され、遠田勝によって追加訂正を見た『新聞人名辞典』に見える青木純二の情報で、これが東雅夫 編『山怪実話大全』に紹介された昭和3年(1928)7月の「サンデー毎日」に掲載された白銀冴太郎「深夜の客」が、その住所から見て、かつ昭和5年(1930)7月刊の青木氏の著書『山の傳説』に「晩秋の山の宿(白馬岳)」と改題して収録されていることからしても、青木氏が筆名を使って投稿したのであったろうと私が推測した根拠なのである。
 さらに経歴に関する資料を若干追加して置こう。
・文圃文献類従 51『戦前 新聞社・ジャーナリスト事典』全三巻・2016年7月発行・揃価58,000円・金沢文圃閣・A5判上製本
 井川充雄 編集・解題。
・第一巻『全国新聞通信網大観 昭和6年版』413頁
・第二巻『日本新聞社史集成 上巻』〔東京・関東・奥羽編〕356頁
・第三巻『日本新聞社史集成 上巻』〔中部・北海道/樺太編〕338頁
 第一巻に影印で収録される『全國新聞通信網大觀』(昭和五年十一月廿七日印刷・昭和五年十一月廿八日發行・定價 金三圓・新聞之新聞社)四頁(78頁)下~一四頁(88頁)下、[神奈川縣]76人中56人め、一二頁(86頁)上段13行め2字下げ2行取りでやや大きく「青 木 純 二 君」とあって、14行め~中段4行め、

東京朝日新聞横濱支局員(住所)横濱市中【中段】區西戸部境ノ谷(原籍)福岡市千代町一七/一〇、高商卒、各社を經て大正十二年朝/日新聞に入社、家族は夫人との間に子女/三名、著書は三冊あり

とある。青木氏は昭和3年(1928)から昭和5年(1930)の間に、東京朝日新聞高田通信部から横浜支局に異動していたのである。
 青木氏の著述目録も(10月22日付「胡桃澤友男の著述(1)」のような作り方ではなく、全て原本に当たって)作成しようと思っているのだけれども、8月に青木氏について知った際に国立国会図書館サーチを検索したところ、「アサヒカメラ」(朝日新聞社)に2度名前が見えたのだが、16巻2号(昭和8年8月)は「(特輯・2)カメラは踊る夏のステップ」の170頁、繫田清四朗 寫眞・青木純二 文「ヨコハマ」、そして19巻5号(昭和10年5月)613~616頁に栗原清一・繁田清四郎・青木純二「横濱の今と昔」、ともに横浜の記事に関わっているのである。朝日新聞社の出版物であり、高田から横浜に移ったのはほぼ確実だとの見当は付けていたが、『全國新聞通信網大觀』によって確定させることが出来た。ちなみに、栗原清一(1882~1944.4.4)のことは9月14日付(117)に触れたように、当ブログでも取り上げたいと思っていながら横浜方面に出掛ける余裕がないのでそのままになっている。繁田清四郎は朝日新聞の元カメラマンで、昭和54年(1979)11月28日、ニュージーランド航空901便エレバス山墜落事故で死亡している。
 昭和5年(1930)当時の青木氏の住所、横濱市中區西戸部境ノ谷であるが、現在の横浜市西区境之谷で、鉄道路線から少々離れているように見えるが、当時は市電が通っていた。子女3名、大正11年(1922)から大正13年(1924)の間に牛尾兵志から青木純二に改名・改姓したのが青木氏に入夫したことに因るとすれば、子女は大正末から昭和初年の間に生まれていることになる。生存しているとして90代、或いは孫の世代に何か伝えられていないであろうか。
 それはともかく、青木氏は戦前から戦後に掛けて、横浜で文化人として活躍していたのである。――青木氏の足跡を辿る作業は、どうも来年まで継続しないといけないようだ。北海道や九州まで調べに行く余裕はないが、国立国会図書館や横浜には年内に出掛けたいと思っている。(以下続稿)