瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

芥川龍之介旧居跡(16)

・群像 日本の作家 11『芥川龍之介』(3)
 一昨日からの続きで、槌田満文文学紀行/芥川の東京・湘南を歩く」から、2節め「田端の旧居跡」の後半、191頁上段2行め~下段5行め、

 龍之介が「我鬼窟」のちに「澄江堂」と名づけた書/斎は、多くの新進作家を集めた文学サロンとして、田/端文士村の中心的存在だったが、芥川家が疎開したあ/との旧居は、昭和二十年四月の空襲で焼失した。約三/七〇坪の焼け跡に戦後三軒の住宅が建てられたが、あ/たりに旧居跡を示す標識のたぐいは見当たらない。
「時雨に濡れた大木の梢、時雨に光つてゐる家家の屋/根、犬は炭俵を積んだ上に眠り、鶏は一籠に何羽もぢ【上】つとしてゐる。庭木に烏瓜の下つたのは鋳物師香取秀/真の家、竹の葉の垣に垂れたのは、画家小杉未醒の/家。……」という書き出しで、芥川が随筆「東京田/端」(『続野人生計事』十四)に記した文士村当時の郊外/らしい雰囲気は、今は全く失われている。


 しかし、確かに大正の郊外らしい雰囲気は「全く失われている」にせよ、Google ストリートビューで見た現状(2019年6月)に比較すれば、槌田氏が訪問した当時、そしてその半年くらい前の平成2年(1990)8月7日に Lyle Hiroshi Saxon が田端駅周辺を散策して撮影した動画を11月10日付(09)に貼付して芥川龍之介旧居跡付近については11月13日付(12)及び11月14日付(13)に細かく確認したが、狭い通りの両側がブロック塀なのは如何にも戦後の名残だが、その内側には戦災後、昭和20年代以来の庭木が生い茂って、塀から通りにはみ出すように、まさに緑滴るような按配にはなっていたのである。
 私が高校を卒業して地方から東京に出てきたのも平成2年(1990)であった。それまで、東京と云えば人口密集地で「東京砂漠」なんて歌謡曲もあって、地面は全てコンクリートアスファルトに覆われているんじゃないか、そんなイメージを植え付けられていたのだけれども、実際に来てみると緑が多いのである。そして私の住んだ家が、まさにこのような戦前以来の住宅地の、古くて敷地が広い、鬱蒼たる庭のあるお屋敷(!)だったのである。
 何でも昭和30年頃、父の会社に(もちろん父が入社する遥か以前の話だが)通産省の偉い人を社長として招聘する(天下りさせる)に当たり準備した家だったとかで、和室だけで30畳半、洋間も入れると60畳近くになったのではあるまいか。昭和30年よりも前のことは聞いていないが、今から振り返るに、どうも戦前からあった家らしいのである。そこで谷謙二(埼玉大学教育学部人文地理学研究室)の「時系列地形図閲覧サイト「今昔マップ on the web」」を確認して見るに、周辺の街路が昭和11年(1936)の航空写真と一致するようである。残念ながら家の方ははっきり分からない。しかし、昭和初年の鉄道開通に引き続いて住宅地として開発された当時のままだったのではないか、と、今にして思い合わされるのである。そうすると私たちの一家が入居したとき、築60年近く経っていたことになる。
 さて、なんでこんな家に何年も暮らせたのか、だけれども、父が偉かったから、ではなくて、相当痛んでいたからである。入居希望時期に空いていれば誰でも入れる戸建ての社宅で、私の一家が入る前は、課長が住んでいたそうだ。余りにも広いので2階は使っていなかったらしい。私の父は流石にもっと偉かったけれども、ちょっと物好きが住むような家だった。クーラーもなく、木枠の窓は窓枠と硝子の間に隙間が出来ていて、雨戸は閉まらない。両親の寝室に使っていた2階の和室は、台風が来る度に雨漏りがして、私は金盥やバケツを一列に並べて、濡れた天井板に滴が盛り上がって、そのまま滴らずに、すーっと移動して途中でぽたりと落ちる。そして、また、すーっと動いて、ぽたりと落ちる。またすーっと動いて、……ぽたんて落づるずおん。またすーっと動いて、……
 駅まで閑静な住宅街を歩いて4分ほど、大変便利かつ静かな場所で、建物の古さを別にすれば全く申し分ないのだが、会社は持て余していたようで、老朽化したからと云って、今更改めて社長用の住居を新築するようなご時世でもなく、解体して独身寮などを建てるには場所が良過ぎ、敷地も少々広過ぎる。だから、私の一家を最後にして売却するつもりだったらしい。そして年に1度は管財課のおじさんの点検を受けながら、しかし最後まで雨漏りが改善することもなく、そうかと云って酷くなりもしなかったのだけれども、父の定年まで8年余を過ごした。思えば、これが私の生涯で最もゆったりとして充実した時期であった。(以下続稿)