題は変えるべきと思うが、差当りそのまま投稿して置く。
・都内の旧居追懐(2)
昨日の続き。
私は2階の北西に板の間を2部屋、勉強部屋と寝室をもらっていた。と云って、2つとも奇妙な部屋だった。
北西隅の勉強部屋は4畳くらいの東西に長い部屋だったけれども、物置みたいな、部屋の北半分(!)が作り付けの棚になっていて、私は全て失敗した受験を終えて戻った兵庫県の家でとにかく荷物を詰め込んだ段ボールを、そのまま並べて行ったのである。とにかく広い家だったので、捨てずに全て持って来てしまった。ここで整理すれば良かったのだが、以後溜まる一方である。それはともかく、窓は西側に1つ、その窓際に勉強机を置いて勉強していたのであるが、夏の晴れた日は、午後ずっと日が差し続けるので40度くらいになってしまう。だから殆ど裸のようになって、柔道着のズボンだけになったりして過ごしていた。机の並びの南側の壁際には本棚を置いた。
勉強部屋の南が寝室で、正方形で3畳くらい、この部屋も西窓で、窓際に幼稚園の頃にもらって以来の2段ベッド(下の段のみ)を置き、他にファンシーケースと簞笥があった。この部屋も暑かったが、しかし当時はクーラーがなくても平気だった。北枕で寝ていた。
大学1年の夏に道路警備のバイトをして、25万円のワープロを買った。暑いことは暑かったが、当時は堪えられないほどだとは思わなかった。いや、都内のあちこちに出向いて、1日立って観察するのは面白かった。但し1度、多摩の某市の農協の前に3日立ったときは退屈で仕方がなかった。春にアルバイトを入れたときには、ずっと山手線の駅に近い寺の信徒会館の工事の番で、同じ場所に立つのは楽は楽だった。向いのビル1階の食堂が郵便配達員たちの溜り場になっていて、昼に裏口に続々と郵便局のバイクが駐車する。そんなある日、門前の廃業するクリーニング屋のおばさんが、私の真面目な仕事ぶり(ただ立っているだけ)に感心してか、2リットル入る大きな魔法瓶を「良かったら」とくれたのである。一家で緑茶ばかり飲んでいるのに、当時、家には小さな魔法瓶しかなかったので、有難く頂戴して、以後10年くらい使ったろうか。現場監督は3人、うち20代後半の下っ端の人がたまに話し掛けてくれて、しかし風俗に一緒に行こうと言われたのには困った。が、おごってくれるのなら行くと返答したら、やっぱり行かずに済んだのである。
そして院生になって、パソコンに買い換えた。Windows 95 で、発売からしばらく経っていたので安くなっていたが、プリンターなど合わせてやはり25万くらい掛かったように思う。ワープロはノートパソコンみたいな按配で、プリンタも要らないから勉強部屋の机の上で良かったが、ブラウン管のパソコンを置く場所がない。そこで寝室の南、南北に長く15畳くらいあったのではないかと思う父の書斎、と云って、北半分は植木のための温室みたいになっていたのだが、1階に置く場所がないので植木置き場にしていた4人用ダイニングテーブルの上を空けてもらって、パソコンを設置することにした。これを今の家でモニタが壊れるまで使い続けたので、私は Windows 98 には触っていない。ネットに繋いでも仕方がないと思ったので接続しなかった。だから長持ちしたのかも知れない。父はなかなか帰って来なかったので、パソコンを買ってからは勉強部屋よりも父の書斎にいる方が長くなった。東西に窓があって、南も西側に窓、東側の壁になっているところに父の黒い大きな机があった。明るくて風通しが良く、しかし冬は寒いので1階の居間の炬燵に入って本を読んだ。当時は1日1章読むことにして、とにかくよく読んだ。メモしながら読むので1章以上読めない。その1章が読み終わらなくて2時3時になることもあった。
私がパソコンを使っていた、ちょうど真下が玄関で、天井に吊ってある白いガラスのやや楕円形の照明は年季が入っていた。家は南西角だったが玄関は西向きで、玄関を入ると右、南側が洋間の応接室だった。ここにソファや飾り棚を置いた。円高不況の時期に現物支給されたテレビがあって、居間のテレビの1.5倍くらいの画面で、家族とは別の番組を見たいときには応接間で、しかし暖房がないので毛布をかぶって見ていた。やはり現物支給のビデオデッキもあったがビデオは殆ど見なかった(レンタルビデオ店の会員にもならなかった)。玄関から北と東に廊下が延びていて、北に行くとまづ便所、手洗い用の小さな洗面台と小便器、奥に大便所があって和式だった。――今、学校の便所が洋式になっていて、和式で用が足せない子供が増えているそうだが、最近NHKが何故か特集している首都直下地震で、水が流れなくなったらどうするのだろう。いざと云うとき、どこでも用が足せるように、踏ん張って用を足す訓練もしておくべきではないのか。それはともかくとして、便所の北が脱衣場で洗濯機があった。そして北西隅、私の勉強部屋の下が風呂場だった。
先日、今の家の風呂給湯器が壊れた。動かなくなった訳ではないのだが、ボタンで給湯や追い焚きを指示しても反応しないことが何度かあって、点検してもらったらボタン(リモコン)と本体との配線が劣化しているとのこと、本体が壊れた訳ではないので部品があれば修理出来るのだが、10年以上前の製品でもう部品がないから全部取り替えるしかない、と言われた。それに比べると、昔の所謂「風呂釜」は単純だったせいか、長持ちしたように思う。しかし、レバーの加減にコツがあって、なかなか上手く点火させられなかったものだけれども。(以下続稿)