瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

森川直司『裏町の唄』(16)

・「投稿 風便り」(09)転居歴・渥美清追悼
 昨日の続き。op.27 からは1年以上を経過している。
op.28 小諸なる古城のほとり 森川秀安さん(東京都) H20/1/21
 平成20年(2008)5月末に長野県小諸市に妻と共に転居することになった顚末について。
 前置きとして森川氏の転居歴が手短に纏められている。

 小学生から中学時代までは深川、卒業して軍需工場に勤めて一年で東京大空襲に遭い東京を追われ、房州(千葉県南部)の伯父の家に厄介になって近隣の軍需工場に通って半年で終戦、一年ばかり釣り三昧のある日、家に幾ら金が残っていると思っているのかと母親にどやされて就職のため上京し、初めは高円寺の伯母の家に寄宿、やがて幼い妹を連れて六畳一間に同居の母と一年後に近所に借家、五年後には阿佐ヶ谷の借家に転居、さらに三年後に練馬区の大泉にようやく念願の建売住宅を得た。
 
 昭和六年、一家が大阪から上京して深川に住む前に半年ほど江戸川区の平井に居たから、平井、深川、高円寺、阿佐ヶ谷、大泉と東京の東から西へ、あるいは北西へと移動したのだが、・・・・


 この「四十年以上住んだ」大泉の家を周辺環境の変化から引き払うことになり、「八年前」すなわち平成12年(2000)に夫婦別々にそれぞれ「マンション暮らし」をすることになり、森川氏は「少年時代を過ごした深川を含む江東区」に住むことになる。――すなわち、これまでの「風便り」への投稿は全て江東区からなされていたことになる。
op.29 ノスタルジアを読んで 高木妙親さん(所沢市) H20/9/10
op.30 寅さんは生きている 森川秀安さん(小諸市) H21/3/10
 転居後の初投稿は72歳の誕生日に公開されている。冒頭部、前置きを抜いて置こう。文中の「窓の写真」は現在、閲覧出来なくなっているようだ。

 相変わらずの雑忙と気力に欠ける日々で、気に掛けながらも「風便り」になかなか投稿できずにいたところ、先月下旬の「窓」に寅さん絡みの柴又の写真を見て急に思いつき、掲載記事を探し出して平成8年の旧作ですが無厳さんに掲載をお願いしました。
 
 これは仕事を通じての友人であり、大伝法第8期の一会でもある、活禅寺に私を導いてくれた故菊池秀岳さん発行の情報紙「商品取引研究」平成8年9月20日号に掲載されたものの再録です。
 
 この年の8月に「寅さん」役の渥美清が亡くなりました。


 以下、1月9日付(09)に取り上げた短い記事「op.5 寅さんファン」よりも前の、渥美清(1928.3.10~1996.8.4)に対する思い入れの窺われる文章が再録されている。末尾に(八月二十三日記)とある「寅さん」の追悼文である。

 「寅さん」には多くの人が何らかの共通点を見出して、一層の親近感を持ったことと思うが、私も寅さんに共感を覚えることが多々ある。私は東京の下町育ちであるが、華やかな下町というより哀感漂う裏町に住み、しかも「寅さん」の同業の露店商人が多く住む「縁日横丁」とも云われていた場所に暮らしていた。
 
 昭和十年前後、すでにラジオ体操はあったがラジオを所有する家は少なく、毎朝、天気予報の時間になると、縁日商人のミヨちゃんのおっ母さんが小走りに我が家の路地の窓の下で聞き耳を立てていた。
 
 我が家に近い大通りには七の日に縁日が立ったが、このグループはここには出店していなかった。


 この「七の日」の縁日については本書【29】「縁 日」に詳細に回想されているが、そこでは130頁9~10行め、

 わが家の横丁は、毎日商人がまとまって住んでいたので、縁日へ行くと顔見知りのおじ/さんやおばさんが金魚屋やおもちゃ屋の店を出していた。

とあって、「商品取引研究」掲載稿と異なっている。続く内容は130頁11行め~131頁3行めに合致する。
 本書等では森川氏の父親の出自が明確でなかったので「三十世帯を越えていた」裏通りで「中学(現高校)を出たインテリ?は父と縁日商人の親分だけだった」と云う記述も、参考になる。
 戦前の柴又の回想は、1月8日付(08)に取り上げた「op.2 クビキリギズ」の異稿とも云うべきものである。そしてここに既に、

 だから戦前の東京下町に住んでいた私から見れば、柴又は下町とは映らないが、「寅さん」によって柴又は、一躍、庶民的下町人間の住む処として全国的に有名となった。
 
 朝晩の挨拶なしでは一日も過ごせぬ、煩わしくもあるが隣り近所が頼りになる下町は次第に消滅しつつあるが、貧しさの中で肩を寄せ合う暮しが過去のものとなり、経済的豊かさが住宅事情も生活スタイルも変え、プライバシーが優先される時代となったのだから致し方ないことだと思う。
 
 だから多くの人が「寅さん」に共感と、失なわれ行くものへの哀惜を覚えるのであろう。
 
 もしかしたら現在の旧東京下町よりも柴又の方が、現実にもむかしの東京下町的であるのかも知れない。

と、『ALWAYS 三丁目の夕日』の評に述べてあったのと同様の見解が示されていた。
 次いで、1月10日付(10)に触れた『昭和下町人情風景』Ⅰ 昭 和【24】「クラス会」に述べられていたクラス会を「第五十回をもって・・・・終了することを提案した」事情について述べている。(以下続稿)