瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

森川直司『裏町の唄』(20)

・「投稿 風便り」(13)
 昨日取り上げた op.67 の続き。
op.68 海の記憶1 安乗の稚児 森川秀安さん(小諸市)H26/04/10
 伊良子清白「安乗の稚児」を引用して解説。
op.69 海の記憶2 龍飛崎 森川秀安さん(小諸市)H26/06/27
 書き出しは以下の通り。

 東京オリンピックは丁度50年前の1964年(昭和39年)だが、その年を除く1962年から66年までの新緑のころに毎年1週間から10日をかけて小学校以来の親友K君と東北地方に限定して延べ1万数千キロを自動車旅行した。


 その3回め、昭和40年(1965)38歳のときの体験について。檜原湖一周にも簡単に触れている。
op.70 海の記憶3 飯蛸 森川秀安さん(小諸市)H26/09/20
 『昭和下町人情風景』Ⅱ 下 町【2】「飯 蛸」は異稿
 冒頭部はこれまで度々出て来た母の実家について。

 父が東京に転職したので、昭和6年夏に大阪から母に連れられて兄弟3人も上京したが、その時私は4歳だった。東京に居が定まるまでの数カ月は、母の実家のある千葉県保田町(現安房鋸南町)の伯父の家の世話になっていたが、そこは南と北を岩礁に挟まれた500メートルほどの西向きの砂浜まで、県道を跨いで50メートルほどの距離の処にあった。
 母や従兄に連れられて、はだしで渚を歩いたり、・・・・


 当初、母の実家に滞在していたことは本書や『昭和下町人情風景』には触れていなかった(と思う)。
 千葉県安房郡保田町は、昭和34年(1959)3月30日に南の安房郡勝山町と合併して、安房鋸南町になって現在に至っている。記述に合いそうな砂浜は、谷謙二(埼玉大学教育学部人文地理学研究室)の「時系列地形図閲覧サイト「今昔マップ on the web」」を参照するに、保田町元名の、鋸山の山裾から続く砂浜がそれらしく、次いで現在は保田漁港が建設されて僅かに砂浜が残るのみの、保田町吉浜のかつての海岸線も、この条件に当て嵌まらなくもないようだ。
 そして、4歳の秋・冬の保田町の海が「この時の数カ月は、浜に出れば毎日が感動で、驚きと楽しさの連続だった」と回想される。
 1行分空けて、1月18日付(18)にも回想されていた伯父の家での夏休みの回想になる。

 小学校高学年になると、夏休みには子供たちだけで伯父の家に厄介になったが、中学生になると冬休みや春休みにも伯父の家に出かけた。その時代を今振り返ると、数々の思い出を残して帰京するや先生の講義も上の空で夏休みを回想し、年が改まれば早くも夏休みに思いを馳せるという風で、私の少年時代は夏休みのために有ったと言っても過言ではなかった。伯父の家には男2人、女1人のいとこが居ていずれも私より年長であった。長男は6歳上、二男は兄と同じ2歳上で、従兄たちは私のもぐり漁の師匠だった。


 それから「もぐり漁」について説明し、さらに飯蛸の「くすぐり漁」について記述する。今は「私は春休みの大潮(潮の干満差が大きい)の頃に磯に降りて蛸獲りに熱中したことがある(昭和22年前後)が、・・・・」と云う時期(20歳頃)の記述に注目するだけにして置く。そして、

 ただ、稿を改めて記す予定だが、戦後数年の、船舶による不法投棄による海やけ等で,海藻もあわびも飯蛸もいなくなった不毛の磯となってしまったので、今はこの飯蛸漁法は絶えてしまったのではないかと思うが、この数十年、従兄の家を訪ねることはあっても、海岸に出たことはないから、今どんな回復状況かは不明だ。しかし東京湾の飯蛸釣りは盛んだろうし、成長した蛸の南下もあるだろうから、岩礁地帯の豊富な房州(千葉県最南部)の飯蛸はたくましく生きている地域があるかもしれないので「くすぐり漁」が伝承されているところがあるのかもしれない。
 飯蛸について記述予定のメモを見ると、16本足の飯蛸、捕食中の飯蛸からあわびを横取り、素手で獲った飯蛸の最大は430グラムなどがあるが長くなりすぎたので他日に譲ることとして、最後に「浪打ち際に枕を並べて酔っぱらった飯蛸」の話を記して筆を擱かせて頂く。

と、続稿とその「記述予定のメモ」について書いて、最後に短い挿話を添えているのだけれども、「風便り」はこの項が最後になっていて、予定していた続稿は書かれないで終ったのか、それとも活禅寺側の方針で載らなく(載せなく)なったのか、気になるところなのだけれどもどうなったのか分からない。(以下続稿)