瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

「木曾の旅人」と「蓮華温泉の怪話」拾遺(148)

・青木純二の経歴(16)週刊朝日」の青木純二
 昨日、国立国会図書館サーチの検索結果を示したが、これは全てではない。国立国会図書館サーチに採録されている、国立国会図書館デジタルコレクションに登録されている雑誌や図書がヒットするので、デジタル化されていない資料は全く引っ掛からない。青木純二が他にない名前なら良いのだが、不幸にして(?)数学の予備校講師に同名の人物がいる。瑣末亭アカウントの当ブログ告知 Twitter にタグ「#青木純二」を附しているが、受験生が引っ掛かって無駄な時間を過ごさないか心配である。いや、瞬殺(!)で当ブログからは離れるであろうけれども。
 それはともかく、一昨日、恐らく東京朝日新聞に移る前の「牛尾純二」名での「週刊朝日」執筆に触れた。どうもこれで東京朝日新聞と関係が生じたようである。執筆依頼があったのは雪国の「高田新聞」社会部記者であったから、それこそ2019年10月24日付(138)に引いた「〈新聞通信/從業各員〉個別名鑑〈大正十一/年六月現〉」を見た「週刊朝日」編集部が「雪にからまる伝説」の原稿依頼先として丁度良いと思ったのであろうか。いや、青木(当時は牛尾)氏を名指ししたのではなく「高田新聞」に依頼したのかも知れない。
 ところが、そこに青木氏が執筆したのは雪国越後の伝説ではなくアイヌの「伝説」であった。これが翌年の青木氏の初めての著書『アイヌの傳説と其情話』に再録されていることで「牛尾純二」と「青木純二」が同一人物であろうと云う見当がほぼ確実となることを指摘するのを一昨日、1月25日付(146)では忘れていた。
 さて今回は、その一昨日に見た書誌書目シリーズ(78)『戦前期『週刊朝日』総目次』から「青木純二」名で掲載されているものを拾って置くこととする。要領は、従来と同じようにすると手間が掛かるので、昨日の示し方に似せてやや簡略にした。下巻の巻末「戦前期『週刊朝日』総目次 執筆者索引」を見るに491(2)頁右列7~8行めに、

靑木純二………… 13-29、15-4、22-5、/  20-1、22-15、24-19、26-17

とある。何故か「22-5」と「20-1」の順序が入れ替わっている。この『総目次』は「目次」を写したもので開始頁は分かるが何頁あるかは分からない*1
・「日本アルプス物語」一九二八(昭和三)年六月二十四日号(第十三巻二十九号)4頁
・「庭の大雪崩(少年小説)一九二九(昭和四)年一月二十日号(第十五巻四号)24頁
・世界の港 猟奇案内「ヨコハマ」一九三一(昭和六)年七月一日夏季特別号(第二十巻一号)76頁
・「山の民謡」一九三二(昭和七)年七月三十一日号(第二十二巻五号)30頁
・都市と港のインチキ物語「港町の迷走路(横浜)」一九三二(昭和七)年十月一日号(第二十二巻十五号)148頁
・「虎御前の白骨」一九三三(昭和八)年十月二十二日号(第二十四巻十九号)26頁
・「競馬騎手物語」一九三四(昭和九)年十月七日号(第二十六巻十七号)12頁
 港湾都市をめぐる2つの企画でも「横浜」を担当している。
 大正10年(1921)2月から大正12年(1923)1月に掛けて「牛尾純二」と名乗っていたが、大正13年(1924)7月までに「青木純二」と改名している。東京朝日新聞に移ったのは大正12年だが、改名前か後かは分からない。
 さて、昨日見たように「青木純二」としての執筆活動は雑誌では昭和19年(1944)までらしい。では東京朝日新聞に移りながら「週刊朝日」から撤退したのかと云うとそうではなく、この頃、別の筆名での執筆活動を開始しているのである。そして、この筆名での執筆活動が昭和31年(1956)まで確認出来るのである*2(以下続稿)

*1:いや、2015年10月14日付「山本禾太郎「東太郎の日記」(07)」に触れたように、この頃の「週刊朝日」は判型がまちまちで、現在と同じ大きさのこともあれば、B4判だったりする。だから頁で分量を示しても余り参考にならないのである。この判型の不統一が、復刊やマイクロフィルム化(デジタル化)の障害となっているのではないか。

*2:「青木純二」名での著書が昭和30年(1955)に刊行されている。