瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

田口道子『東京青山1940』(13)

・著者の家族と住所(2)
 前回見たように田口氏は小学生時代に「赤坂区青山南町5丁目84番地」に住んでいたが、東野家はその前後、何度も転居している。
 前回引用した第二章 昭和戦前「青山」の街・人・暮らし【48】貸家の「貸し屋札」はどれも斜めに、小学3年生の担任の家探しの節に続いて、【49】子どもの成長に合わせてお引越しの節に、138頁9~11行め、

 引っ越しは学生時代からの父の趣味ではなかったのかと思えるほどで、姉妹は四人とも別々/の場所で生まれている。父はいつもいっていた。都会暮らしの便利なところは、そのときの家/庭の状況に応じて、いくらでも引っ越しできることだ、と。

とあって*1、前回確認したように東野家の4姉妹は、西暦の年度で云うと長女1925、次女1929、三女(田口氏)1931、四女1935、と10年ほどの間に誕生している。3年に1度転居している勘定で、さらに、6~8行め、

 私の家も青山の同じ町内で一回引っ越しした。次の年には上の姉が小学校を卒業し、私が入/学するというときだったので、ちょうど空き家になった三軒隣のやや広く明るい家に引っ越し/たのだった。

とあって、田口氏が小学校に入学した昭和13年(1938)の前年、昭和12年(1937)に恐らく「赤坂区青山南町5丁目84番地」の中で移動したようだ。それ以前にも田口氏は妹(四女)が生まれる前にも1度転居しているはずだが、それは物心付く前だったからなのか、特に記述がない。そして12行め「戦時中」には、13行め「もう時代は引っ越しどころではない状況になっていた」とのことで、その後は昭和20年(1945)3月に、206頁5行め「わが家を含めて周囲四軒が」3行め「強制疎開」の、5行め「その範囲に入ってしまったこと」で、217頁6~8行め、

 父と、女学校を卒業し専門学校生になっていたが、学徒動員で学校出はなく中島飛行機の部/品工場に通勤していた上の姉だけが、もとの家の向かいの家の離れを借りて東京に残り、母と/下の姉と私の三人が、父の郷里の北陸の町へ疎開するということになった。


 8年ほど住んだ家が取り壊され、田口氏たちは戦後戻って来るまで青山を離れている。そして前回見たように、妹は別に「仙川」に学童疎開している。
 さて、青山に残った父と長姉の仮住まいであるが、1月21日付(01)に触れた裏表紙見返しの赤坂区全図を参照するに「青山南町5丁目84番地」の向かいは「青山南町5丁目45番地」現在の港区南青山4丁目15号である。(以下続稿)

*1:「父」の「学生時代」に関する記述は他に全くない。少しは欲しいところである。