瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

田口道子『東京青山1940』(15)

・著者の家族と住所(4)
 2月12日付(12)の最後に確認したように、母親と妹の田口氏とともに福井県今立郡鯖江町に疎開した次姉は、2学年上で昭和20年度には高等女学校4年生だったはずなのだが、高等女学校2年生に転入するはずだった田口氏が、2月14日付(14)に見たように「なぜか女学校への転入手続きが遅れて」しばらく「二階の部屋」で雑誌を見たり、従姉の子で、227頁8行め「四歳くらいだった女の子」を連れて「まいにちのように裏の田んぼの畦伝いに」北陸本線の「線路まで遊びに行」ったりして過ごしていたのだが、次姉(及び母)が何をしていたのか、記述されていない。
 昭和20年(1945)7月19日(木)の福井大空襲の翌20日(金)にも、田口氏が一人で不通になった北陸本線(汽車)ではなく*1私鉄の電車で学校のある福井市に出掛けたことになっていて、姉とは同行していないようである。
 しかし、同じ女学生で三女だけ転入させるなどと云うことはあり得ないので、続きを読んで行くと、241頁14行めに「姉は同じ女学校だったが、やはり動員で、学校ではなく繊維工場に通っていた」とあった。繊維工場とは大和紡績福井工場であろうか。福武電氣鐵道の終点、福井新駅(現、赤十字前駅)の西、赤十字病院の北にあり、「渋沢社史データベース」の「大和紡績(株)『ダイワボウ60年史』(2001.09)」の「年表」平成7年(1995)9月30日条に、「ダイワボウポリテック福井工場閉鎖、テクノステーション(美川)・和歌山工場へ事業移転、跡地は福井市ほかに譲渡」とあり、現在は住宅地になっていて福井市みのり3丁目にほぼ重なる。
 もしそうだとするなら、次姉も田口氏と福井新駅に行ったかも知れないが、福井新駅で「大和紡績(株)『ダイワボウ60年史』(2001.09)]」の「年表」昭和20年(1945)7月19日条にあるように「福井工場、空襲により大部分被災」と直ちに判断されたであろう。その記述がないところからするとやはり次姉と田口氏は別々に行動していたもののようである。もちろん、大和紡績福井工場ではないかも知れないけれども。――やはりいろいろと具体的に書いて欲しかったと思うのである。
 敗戦のことは、247頁7~8行め、

 通っていた学校の校舎は一木一草も残さずというほどに空襲で焼け、その焼け跡整理の帰り/だったと思う。八月の暑い日盛りに、戦争は終わったと人づてに聞いた。

と回想されている。その後、248頁4~5行め「田んぼの畦道をたどって、/仮校舎となった村の小学校の木造校舎へ通っていた」2行め「敗戦から二か月後の十月」に、6~7行め「東京/へ帰ることが決まった」ようだ。(以下続稿)

*1:2月17日追記】汽車通学のときのことは、2月14日付(14)に見た箇所の他、261頁1~4行めに「 疎開先の北陸の街の戦後の風景にも、ジープに乗った米兵はいたのだったが、それはまだそ/の都市が空襲に会う前、学校帰りに汽車を待つ間に、何時も北陸本線のプラットホームから見/ていた、駅構内の貨物の引き込み線内で、赤い囚人服を着て荷役に従事していた捕虜たちの集/団だったと噂されていた。」との記述がある。