瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

田口道子『東京青山1940』(16)

・著者の家族と住所(5)
 田口氏の半年の疎開生活は、第四章 新しい時代が開く前にの【14】もう一つの戦い、【15】都会ふうは非国民、【16】まだ大きかった地方都市との文化の落差、【17】窮鼠一匹猫軍団を東京弁で撃退の4節にわたって詳述され、さらに【20】いまわかる「江田島」に志願できなかった少年の鬱積(及び【21】やさしい絹靴下から強いナイロンス卜ッキングへ)に現在の視点からの見解も付け加えられている「地元の中学生」つまり同世代の男子生徒たちとの間に発生した「絹靴下事件」に象徴されるように、余り気持ちの良いものではなかったようだ。
 ただ、本書に取り上げられた出来事の中では詳述されているとは云え、この「絹靴下事件」についての記述も、どうも細かいところがぼんやりしているように感じられる。――241頁10行め「たまたま‥‥東京の父から送られてきていた」、240頁13行め、何故か「東京では、‥‥配給になっていた」14行め~241頁1行め「シルクのストッ/キング」すなわち1~2行め「厚ぼったかったがし/っとりとした風合いの、後ろ中央に一本のシームが通った絹靴下」を履いて11~13行め「空襲もまだまったくなかったおだやかな日のままに、ちょ/っとお洒落心がきざしたのか、東京ではいつもそれだった野暮ったいズボンを脱いで、制服を/紺色のセミフレアーのスカートにして学校に行った」ところ*1、東京では別に問題にもならなかったのに福井市では、242頁1~2行め「この戦争下の「贅沢は敵だ」という非常事態のときに制服の女学/生が履いてくるなんて、とんでもない「非国民」という感覚だったの」か、4~5行め「学校で姉がどんなに東京の事情を説明し弁明しても通らなかったようで、早くも初日で、/たちまち地元の男子中学生たちが、ぞろぞろと帰宅する姉のあとを家まで着いてきたのだった。」と云う事態になってしまう。ところで田口氏は当時の学制を説明していないが、中学校は男子のみで女子は高等女学校、昭和18年(1943)の中等学校令により修業年限はそれまでの5年から4年に短縮されていた。
 さて、私が一番気になるのはやはり時期である。240頁4行め「私たちが一戸を構え地域社会と接触するようになったとたん」とあるから従姉の家を出て間もなく、8行にもめ「異文化に突然投げ込まれた半年余という短い間の、スタート地点で挫折したようなその出来/事」とある。従って、3月末に鯖江疎開し、4月から10月までの次姉と田口氏の福井県立高等女学校在学期間の、かなり初期のことであろうと察せられる。
 そして、242頁7行め「その日以来、家の前」に「中学生たちが夕方にな/ると‥‥群れてたむろするようになっ」てしまう。244頁5行め「帰ってくると」7行め「彼らは叫びはじめ」る。そんな状態が日数は示されていないがしばらく続き、244頁14行め「首謀者らしい少年」が245頁2行め「ある日ついに塀をよじ登って」きたことに、244頁12行め「我慢にも限界がきた」田口氏が、245頁14行め「東京弁」で反撃、気勢の殺がれた彼らを、246頁8行め「撃退」する。247頁4行め「その翌日から、嘘のようにぴったりと彼らはこなくな」る。
 時期のヒントがないかと思って前後を眺めるに、次のような段落に目が留まった。242頁12行め~243頁1行め、

 おまけにその頃は、慣れない土地で母が体調を崩し、東京の病院で診察を受けるといって留/守にし、一度出たら容易に帰れる時代ではなかったので、その間、私と姉は二人だけでその家/で生活しているときだった。しかも姉は十代半ばという花の年頃だった。妹はまだ疎開先から【242】きていなかった。


 妹が昭和19年(1944)8月頃に「仙川」に疎開していたことは2月12日付(12)の後半に触れたが、217頁9~10行め「しばらくは親戚に厄介になることを考慮したのだろうか、「仙川」の妹は、私たちが落ち着い/たら追っかけてあとから父が連れてくることになり」とあった。しかし集団疎開先「仙川」での妹の生活及び田口氏が面会に訪れた際のことは、第三章 国ごと破滅までのエネルギー【18】家族写真を撮った父の心境、【19】集団疎開の妹と初めての面会日、【20】歯磨きをオイシイマズイできめる癖、の3節に記述されているのに、鯖江での生活については何の記述もない。父が自分の郷里である妻子の疎開先に妹を連れてやって来たことも記述されていない。或いは妹は東京に一旦戻っていた母が連れて来たのかも知れない。そういった辺りが、どうもはっきりしないのである。
 しかし、誰が連れて来たのか分からないが、妹も鯖江疎開したらしく、そのことは181頁8~10行め、妹の疎開の開始時期と場所に触れた記述に続いて、11~12行め、

 それから約八か月間、私の家でも父の郷里へ本格的に疎開することになって、疎開地に引き/取るまで、妹の空腹とホームシックの戦いがはじまるのだった。

とある。8月から数えて8ヶ月は昭和20年(1945)4月、2月14日付(14)に見たように、田口氏の転校手続きが遅れている間はまだ従姉の家にいた訳で、その後の転居、そして母の上京なども勘案すると、妹が鯖江に来たのは5月に入ってからではないか。――つくづく思うに、日付のはっきりする日記の効用はやはり大きいと云わざるを得ない。(以下続稿)

*1:187頁11~13行め、昭和19年(1944)、東京で高等女学校3年生だった「下の姉の制服は、それまでのセーラー服から紺色のスフ混じりの生地になり、/形もへちま衿でウエストをベルトで締める上着に変わり、下はモンペ型のズボンを履くという/全国統一の国民服になっていた。」