瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

田口道子『東京青山1940』(17)

・著者の家族と住所(6)
 「絹靴下事件」の主役である姉はもちろんのこと、田口氏も福井県立高等女学校で同級生たちと上手く行っていなかったようだ。その辺りが疎開先を明示しないことに繋がっているのかも知れない。
 231頁12行め~232頁1行め、

 学校は関西方面からの疎開者で溢れていた。当初、東京からという疎開者はほとんどいなか/った。編入の挨拶をして一か月も経たないうちに、さらに疎開者が増え、学校側は急遽*1私たち/をまとめて「疎開組」というクラスを増やして対応した。【231】
 すぐにクラスは変わり、その間のことや、最初のクラスの印象は何も残っていない。

 「最初の」編入された「クラス」から1ヶ月後に「編入組」に纏められたのは分かるが、その次の「すぐにクラスは変わり」が少々分かりにくい。しかし「編入組」からさらに「クラスが変わ」ったように読むのが良いようだ。すなわち、249頁写真の2月5日付(05)にキャプションにある、帰京を前に一緒に写真を撮った、248頁6行め「しかし四面楚歌*2のようななかでも、やさしかった地元のクラスメートが一人がいて」と特筆される12行め「友だち」は、13行め「農家だった彼女の家では」とあるように疎開者ではなさそうで、「最初のクラスの印象は何も残っていない」のであれば「疎開組」の後に編成されたクラスで「クラスメート」になったと考えられるからである。
 それから「東京からの疎開者」が「当初」は「ほとんど」おらず、しばらくして若干増えたかのようであるが「四面楚歌のような」とあるところからすると、同じような苦労があったはずの「東京からの疎開者」たちとは、特に交流を持つこともなかったようである。
 そしてやはり気になるのは、疎開先から帰京する際に撮した「地元のクラスメート」との写真は掲載しているのに、1月24日付(04)に示した第三章 国ごと破滅までのエネルギーの細目、【18】家族写真を撮った父の心境の節、181頁3~4行め、昭和19年(1944)4月、田口氏が高等女学校「に入学したばかりの春まだ浅いある日、父が頼んだ写真/屋が家の庭先にやってき」て、5~7行め、

 子ども四人は、縁側に四枚並べた座布団に座って笑って写真に写った。父はいつ家族の離散/か、あるいは子どものだれかがどうかなってもおかしくない状況を察し、最後の記念写真のつもりだったのだろう。

と、印象深く述べられている「家族写真」が掲載されていないことである。これは是非とも載せて欲しいところで、現存していないのであればその旨断って欲しい。それとも家族から、144頁上の写真よりもはっきり写っている写真は載せないよう圧力(?)が掛かって掲載を見合わせたため、載せなかったことについて断りを入れずに済ませたのであろうか。――当然あるべき記述や写真がないと、読者としては宙ぶらりんにされて、あらぬ想像を掻き立てられてしまうのである。
 同様に気になるのは、鯖江から東京に戻ったとき、第四章 新しい時代が開く前に【25】生き生きと明るかった東京青山の敗戦直後にあるように、強制疎開で取り壊された家のあった場所(青山南町5丁目84番地)に向かっている。その向い(45番地)が2月13日付(13)に見たように、父と長姉の仮住まいだったのだが、【18】戦争に負けた……虚脱感のなかですぐやったことの節に、昭和20年(1945)8月15日のこととして、247頁13~14行め、

 そして、その夜からとりあえず茶の間も心も明るくなった。しかし、それですぐに父のいる/東京の、たった二間しかない仮住まいへ帰れるものでもなかった。

とあるのだが、母と次姉、田口氏、妹の4人が疎開先から引き上げて来て、この仮住まいに収まったのであろうか。しかし、どこに落ち着いたかはやはり記述がないのである。(以下続稿)

*1:ルビ「きゅうきょ」。

*2:ルビ「しめんそか」。