瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

赤いマント(229)

・岩崎京子の赤マント(4)
 岩崎京子(1922.10.26生)の経歴については7年前、B区立I図書館に初めて行った際に、2階の参考資料室にあった2種の人名事典の記述を書き抜いて置いたのですが、そのメモをなくしてしまって、それが岩崎氏の赤マント体験についての検討を後回しにさせていたのでした。しょうもない理由ですが締切もなく大して読まれている訳でもないブログ記事執筆は往々にして気分に左右されます、多分。
 しかし、そんなことも云っていられなくなりましたから、ネット情報を手懸かりに確認して行きましょう。
 生年月日は Wikipedia「岩崎京子」項に拠りました。「来歴・人物」の冒頭に「東京生まれ。恵泉女学園高等部卒業。」とあります。そこで岩崎氏と学校名で検索して見ると、「恵泉女学園同窓会」HP「学園からのお知らせ」2011年01月24日付「河井道記念礼拝にて岩崎京子さん(普通部8回・高等部8回)がお話されます」がヒットしました。
 そこで「学校法人恵泉女学園」HP「学園のあゆみ」項を参照するに、その冒頭部、

1929年 3月 恵泉女学園新設認可
  4月 牛込神楽町の仮校舎で第1回入学式を行う(生徒9名)
1930年 12月 千歳村の新校舎に移転
1934年 4月 第1回卒業式/普通部の上に2年制の高等部(文科・家事科)を開設

とあります。「千歳村の新校舎」と云うのは東京府北多摩郡千歳村船橋(現、東京都世田谷区船橋5丁目8番1号)で、現在も恵泉女学園中学・高等学校と学校法人恵泉女学園本部がある世田谷キャンパスです。さて、昭和4年(1929)入学が1回生で昭和9年(1934)卒業ですから5年制、8回生は昭和11年(1936)4月入学、昭和16年(1941)普通部卒業、2年制の高等部に進んで昭和18年(1943)卒業、と云う勘定になります。
 そうすると、大正11年(1922)10月26日生の岩崎氏は昭和4年(1929)に小学校入学、卒業は昭和10年(1935)3月になるはずで、恵泉女学園8回生とは1年ズレるようです。戦前は小学校の入学を遅らせたり1年休学するようなことがありましたから、何らかの事情でズラしたのでしょうか。そうなると小学校の卒業がいつなのか、知りたいところですけれども流石にそこまでは私がかつて参照した人名事典類にも載っていなかったはずです。
 何故小学校の在籍期間を気にするのかと云うと、岩崎氏の赤マント体験は小学6年生のときのこととされているからです。
 岩崎氏の通っていた小学校ですが、現在の世田谷区立桜丘小学校で間違いないようです。
・石井正己 編『昔話を語る女性たち』平成20年6月10日 初版発行・定価1700円・178頁
 書影は昨日の2番めに示しました。11~122頁「第一部 遠野昔話ゼミナール(二〇〇七年一一月一〇日・一一日、岩手県遠野市にて)」の講演録。123~176頁「第二部 昔話と女性に寄せて」として6人が寄稿しているのですが125~134頁、その1人めが岩崎京子「『かさこじぞう』の誕生」です。
 居住地について触れているのは125頁2行め~128頁1行め「一 地蔵さまとの出会い」で、冒頭、125頁3~10行め、

『かさこじぞう』を書いたのは昭和四二年(一九六七)でした。近くに民話作家の大川悦生さん*1/が越してこられ、私たちの町(世田谷区烏山)も文化的になりました。私たちは大川さんのおす/すめて、文庫という形の読書運動をはじめましたし、民話について目をひらいたのも、思えば大/川さんのおかげでした。
 ポプラ社の「むかしむかし絵本」の監修者だった大川さんから、
「あんたも書いてみない?」
といわれました。民話にはじめて向き合ったばかりの私にですよ。
「何を書いてもいいから」
 その時ふっと頭に浮かんだのは、幼な友だちの地蔵さまでした。


 大川悦生(1930.7.6~1998.3.27)は岩崎氏よりも年下ですが、早大童話会出身で指導的立場にあったようです。「文庫という形の読書運動」は、昭和50年(1975)に岩崎氏が自宅に開設した家庭文庫「子どもの本の家」で、平成29年(2017)3月29日(水)まで42年間運営していました*2
 そして、これに続いて幼少期を過ごした場所について述べるのですが、やはり現在の世田谷区内、岩崎氏は実に90年以上、世田谷区域で暮らして来たことになるのです。(以下続稿)

*1:ルビ「おおかわえっせい」。

*2:しかし、閉鎖から3年にして、既にして北烏山か南烏山かも分かりません。