瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

森川直司『裏町の唄』(23)

・元加賀小学校と周辺の小学校(1)明治小学校と大富小学校
 昨日見た「入 学」から、もう少々書き抜いて置こう。
 『裏町の唄』14頁14行め~15頁7行め、『昭和下町人情風景』81頁12行め~82頁4行め、前者の改行位置を「/」で、後者の改行位置を「|」で示し、加筆を薄い赤の太字で示した。

 一年白組中山学級の同級生は、今では考えられない大人数の七十二名だった。一学年は/|男三組女三組だったと思うが、教室が足りなくて、二部授業といって午前授業と午後授|業/【14】を隔週に繰り返した。
 午後の部のときは、朝、みんなが登校するときにのんびりと遊んでいたが、仲間が少な/|くて遊ぶといってもまとまりがなかった。近所のおばさんたちに「おや今日は学校へ行|【81】か/ないの」といわれる*1たびにいいわけをしていた。
 こんなことは、近くに小学校が出来たりして、やがて解消したが、二級下の弟が一年生/|のときには三部授業という、三交替制まであった。
 兄とは一年ちがいであったが、‥‥


 森川氏の兄は大正14年(1925)生で昭和7年(1932)に小学校入学、森川氏は昭和2年(1927)の早生まれで昭和8年(1933)入学、弟は昭和3年(1928)生(昭和4年の早生まれの可能性あり)で昭和10年(1935)入学、と云う順序のようです。
 「近くに‥‥出来た」小学校は、清洲橋通りを西に700mほどの江東区白河1丁目5番15号にあった江東区立白河小学校であろう。平成14年(2002)4月1日に江東区立明治小学校(江東区深川2丁目17番26号)に統合され、校舎は現在K.インターナショナルスクールになっている。
 明治小学校のことは、隣接する小学校として『昭和下町人情風景』に再録されていない『裏町の唄』【10】「大富小学校」に説明されている。46頁2~9行め、

 小学校の通学区は一応きまっていたのだが、年によって若干の変更があるらしくわが裏/通りの子供たちは、明治小学校へ通う者と元加賀小学校へ通う者とが入り乱れていた。
 時には学校別に分れて、一つの通りの子供たちが大喧嘩となることもあったが、たいて/いは、それぞれの学校をののしり合う口喧嘩で終った。
 明治小学校へ通う者は、材木屋や商家の多い学区の地域のためか平均して暮し向きに余/裕のある家庭が多かったようだ。
 元加賀小学校は、学業優秀な者はあまりいなかったようだが、スポーツは滅法強くて、/校長室にはいつも優勝旗が林立していた。


 題になっている大富小学校については、47頁4~12行め、

 この地域別の学区割のほかに、同じ東京市立の小学校でありながら、通学区と関係のな/い小学校があった。
 極貧の家庭の子女だけを入学させるのだが、自由意志で入れたのか、生活保護を受ける/と自動的に入学させられたのかは知らない。
 元加賀小学校にも生活保護を受けている家庭の生徒がいたから、強制ではなかったのか/も知れない。
 その小学校は大富小学校といった。大富という名は皮肉でつけたわけではなく、生徒が/将来、大きく富むようにとの願望からつけたわけでもない。その小学校のあったところの/町名が、むかし大富町だったからということのようだ。

とある。今、大富小学校で検索しても山形県東根市・千葉県山武市静岡県焼津市の市立小学校がヒットするばかりだが、かつては有名な小学校であったようだ。47頁15行め~48頁7行め、

 大富小学校の名前は、そこに椎名という名校長がいて、不良化した少年を心血をそそい/【47】で更生させる物語りが、浪曲の演題で、ラジオでも何度か聞いたことがあるのでよく知っ/ていたが、その当時から貧困家庭の生徒だけを集めていたのかどうかは知らない。
 その物語りの舞台となった第六ケ原は、元加賀小学校と清砂通りを距てた向い側に、ほ/んの一部が名残りをとどめていて、低学年の頃はその原っぱでトンボやオート(バッタ)/を追い回したが、やがて工場の敷地などとなって姿を消した。
 わが家の近所にも大富小学校の生徒がいて、それより近い元加賀小学校を毎日横目で見/ながら通っていた。


 大富町がどこにあったのか、検索してもヒットしない。
 谷謙二(埼玉大学教育学部人文地理学研究室)の「時系列地形図閲覧サイト「今昔マップ on the web」」の「首都圏」にて、検索窓に「元加賀小学校」と入れて、地理院地図(現在の地形図)を見ると、元加賀小学校の北北西、小名木川に「大富橋」が掛かっている。「第六ケ原」は元加賀小学校の北、清洲橋通りの北側にあった空地のようである。大富小学校のこの辺りにあったと思われるのだが地形図からは見当を付けられない。地形図「1927~1939年」の、大富橋の北にある「文」すなわち学校の地図記号がそれらしいのだが、これは大富小学校ではなく東京府立実科工業学校で、「東京都立墨田工業高等学校」HPの「学校紹介 > 墨工の歴史」の「昭和2.11.18」条に「校舎を深川区富川町3番地(現:江東区森下5-1-7)に新築し、移転。」とある。なお、2012年4月11日付「現代詩文庫47『木原孝一詩集』(1)」に触れたように太田忠、後の詩人木原孝一(1922.2.13~1979.9.7)が、森川氏の小学校時代に在学していた。
 国立国会図書館サーチで「大富小学校」を検索するに上記、地方に現存する小学校に混じって1件だけ、昭和6年(1931)刊、日本両親再教育協会 編『子供研究講座』第9巻(先進社)所収「細民兒童の趣味善導に就て・大富小學校々長 椎名龍徳」がヒットした。これが「椎名という名校長」すなわち椎名龍徳(1888~1947.10)である。椎名氏は戦後、昭和22年(1947)4月の公選初代台東区長に当選しているが、10月に死去している。著書が何冊かあり、これを辿ることによって経歴が明確に出来ると思うのだけれども、こんな状況下ではいつ閲覧出来るか分からない。遠い課題として置こう。(以下続稿)

*1:『昭和下町人情風景』は「言われる」。