ここまで、森川氏の母校の元加賀小学校と、隣接する明治小学校、プールの講習があった臨海小学校、そして主要な進学先であった明川高等小学校に不十分ながら触れて、この項は終わりにするつもりだったのだが、もう1つ小学校を追加して置くこととした。
・元加賀小学校と周辺の小学校(4)水上小学校
水上小学校の名は、1月10日付(10)に取り上げた、森川氏の同級生秋野君(仮名)に関連して登場する。本書40~42頁【8】「エチオピア」の冒頭、40頁2~10行め、
小学校の一年から六年まで同級生だった数少ない友だちに秋野君というのがいた。
隅田川周辺の掘割(運河)を往来するダルマ船が住まいだった牧野君は、陽焼けして人/一倍黒かった。
入学当時は、我が家の一側隣りの路地裏の家に預けられてそこから通っていたが、やが/て船から通うようになった。
秋野君がなぜ、水上生活者の子供のための水上小学校に行かなかったのかは知らない。
四年生になって男女組に入れられたとき、同級の男子が十四人しかいなかったが、この/中に秋野君がいたので、はじめて親しく遊ぶようになった。
男女組となって秋野君と親しくなったころ、彼にはエチオピアというアダ名がついた。
本書では「秋野君」ではないのだが、1月10日付(10)に述べた理由で「秋野君」として置く。
水上小学校については「投稿 風便り」op.9「秋野君はいま何処に」冒頭の方が詳しい。
今は無くなってしまったが、東京の水路を運航する小型船の水上生活者の児童を対象とした「水上小学校」という名の学校が、隅田川河口の月島にあった。 1年から6年まで通しての数少ない同級生の一人、秋野君は深川を縦横に走る掘割を拠点とする人力で動かす達磨船の船頭の子供だったが、何故か寄宿舎もある水上小学校に入らずに小名木川に近かった私の小学校に通っていた。
1、2年生の時は私の住まいに近い親の知り合いの家に預けられて、そこから通っていたが、3年になったら自分の船から通学していた。‥‥
水上小学校については、次の本がある。
・石井昭示『水上学校の昭和史 船で暮らす子どもたち』
- 作者:石井 昭示
- 発売日: 2004/03/01
- メディア: 単行本
・勝鬨美樹『勝どきには「はしけの子供たち」の学校が有った 忘れてはいけない東京水上小学校の記憶』
こちらは電子書籍である。これは勝鬨美樹のブログ「銀座グランブルー/閑話夜話」のテーマ「水上小学校」の記事を纏めたもののようだ。2017年05月01日「東京水上尋常小学校を想う#01」から2017年05月30日「東京水上尋常小学校を想う#29/おわりに」まで毎日計30回連載されている。2017年05月29日「東京水上尋常小学校を想う#28」に拠ると、最終的に昭和45年(1970)3月に閉校になったようだ。
さて、森川氏が秋野君と男女組でも同級だったことは、「投稿 風便り」ではop.11「秋野君の弁当箱」にはっきり記述されている。
ピーク時には全校生徒は2000名を超えていたから、学年が異なれば勿論、同学年でもクラスが違えば名前を知らない者がほとんどだった。4年生の時に一度だけ大規模なクラス替えがあって、男子2クラス、女子2クラス(いずれも60名超)のほかに男女組1クラスが出来たが、男子14名、女子25名の当時としては異例の小人数だった。他の4クラスを60名にして超える人数を回せば男女組も60名近くなるのだが、このクラスは児童を選別した特殊学級だった。
私の学校は当時から実験校的であったが、明示されたわけではないが身体の弱い者を集めたという。弱いといっても、欠席率が高いわけでもなく体格のよい者もいたし皆元気だったが、強いて言えば腺病質なところがあったのかもしれない。
寄せ集めの4年生になった時、1年生から同級だったのは6名だったがその中に秋野君がいた。6、70名もいると同級生でも主に家が近いかクラスの席が近い者が遊び仲間になるのだが、秋野君を含む5名の同級生は私の仲間ではなかった。私だけでなく6名はお互い名前は知っていたが親しい仲間ではなく、クラス替えになって60数名から切り離された時に、あらためて同級生だった事を認識したのだった。
秋野君は1、2年生の頃、我が家に近い親の知り合いの家に預けられて通学していたので顔見知りだったが、同級生が6名しか残らなかった4年生の時まで友達ではなかった。しかし親しい仲間でなかった秋野君について、一つだけよく覚えていることがある。
この「よく覚えていること」が秋野君の弁当箱の思い出なのだけれども、気になるのはクラスの人数が前回4月25日付(25)に触れた本書【6】「男 女 組」と異なっていることである。
それはともかく、「投稿 風便り」op.9「秋野君はいま何処に」には、卒業後の進路についても触れるところがある。
その頃の私の住まい周辺の小学生は卒業すると、大雑把にいって七、八割が高等小学校、残りの半分が中学校、あとの半分は奉公に出るか家業の手伝いだった。秋野君は時計屋に奉公に行くと言っていたが、卒業するとそれっきり消息がなかった。それから6年後の3月10日に東京大空襲があって、我々の町は灰燼に帰したので、すべての級友の消息が途絶えてしまい生死さえ不明だった。
この進路の割合も前回見た本書【7】「予 習」と異なっているように思われるのだが、これは男女組だけでなく学年全体の傾向を述べたためであろう。(以下続稿)