瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

森川直司『裏町の唄』(29)

 昨日から続けて、昭和19年(1944)に就職した軍需工場、父と弟妹4人を失った東京大空襲、それから戦後の旧制専門部に触れても良いかと思ったのだが、その前に次の件について済ませて置きたい。
・森川氏の住所
 1月16日付(16)に引いた「投稿 風便り」op.28「小諸なる古城のほとり」等にある通り、森川氏は昭和7年(1932)の夏の終わりか秋の初めに東京府南葛飾郡小松川町の平井(現、江戸川区)から転居して、昭和8年(1933)4月に元加賀小学校に入学、昭和14年(1939)3月に卒業、進学して5年制の私立の中学(商業学校)を昭和19年(1944)3月に卒業、昭和20年(1945)3月10日の東京大空襲に遭うまで12年半を、4月22日付(22)に見たように「深川区三好町二丁目十六番地」に暮らしている。
 しかし、これが現在の何処に当たるのか、俄に分からない。ネットでは番地まで分かる地図は探せない。例えば、国立国会図書館デジタルコレクションでは関東大震災以前の番地入りの地図は閲覧出来る。しかしながら、震災後・戦災前の地図はインターネット公開になっていないのである。そこで、本書から手懸かりになりそうな記述を拾って、ネットで参照し得るサイトや地図等と照合しながら、考えて行くこととしよう。
 まづ、本書【2】「遠 足」に、大体の位置が示される。冒頭部を抜いて置こう。17頁2~10行め、

 一年生の春の遠足は清澄庭園だった。清澄庭園は岩崎財閥が東京市に寄付したというも/ので、近所の人たちは、清澄庭園(または公園)という人と岩崎庭園という人が半々だっ/た。
 遠足は、学校から清澄庭園まで、区役所通り(やぶ通り)を歩いて行った。わが家は小学/校と庭園の中ほどの裏通りにあったが、表通りに面した同級生もいたから、学校から清澄/庭園までの往復(片道徒歩三十分程度)は、自分の家の前を行き来することになるし、遊/び仲間と公園(公園の一角にある庭園は有料)に行くことはときどきあるから、学校から/庭園寄りの生徒はあまり遠足の気分はしなかった。庭園へお弁当とお菓子を食べに行った/ようなものである。


 区役所通りは現在の深川資料館通りで、明治の深川区役所が震災・戦災を経て戦後の江東区役所となって昭和49年(1974)に東陽町の現在地に移転するまで存していた。跡地には現在、昭和61年(1986)10月開設、11月開館の深川江戸資料館がある。現在の江東区三好は、清澄庭園清澄通り)と大横川の間の、深川資料館通りの南側で西から1丁目で東端が4丁目である。
 Wikipedia清澄庭園」項及び「公益財団法人 東京都公園協会」HP「清澄庭園」の「この公園について」に拠ると、現在の清澄庭園・清澄公園の場所は下総関宿藩久世氏の下屋敷で、明治11年(1878)に岩崎弥太郎(1834.十二.十一~1885.2.7)が買い取って社員の慰安や貴賓を招待する場所として整備し明治13年(1880)に深川親睦園として竣工、しかし大正12年(1923)9月1日の関東大震災に被災、避難場所として多くの人命を救ったことから岩崎家は翌大正13年(1924)に東半分(現、江東区清澄3丁目3番)を東京市に寄付、東京市が整備して昭和7年(1932)7月24日に開園している。
 西半分(清澄公園。現、江東区清澄2丁目2番)は昭和48年(1973)に東京都が購入し昭和52年(1977)に開放公園として追加開園したとのことだが、震災後、都が購入するまでの50年間、どうなっていたのかが分からない。そこで谷謙二(埼玉大学教育学部人文地理学研究室)の「時系列地形図閲覧サイト「今昔マップ on the web」」を参照するに、明治(及び大正)の地形図は清澄庭園・清澄公園ともに「岩崎別邸」となっているが、昭和に入って戦前・戦争直後の地形図では、東側が「清澄庭園」、西側は仙台堀川に水路で繋がる池があってその畔に工場の地図記号(⛭)の附された建物がある。池には2本の鶴嘴を交差させた採鉱地の地図記号を、左上に頭部があって右下へ柄が伸びた1本だけにしたような記号があって、これは栃木県大田原市のごとう整骨院代表後藤貴史のサイト「明治40年代の地図記号」に拠ると「材料置き場」で、終戦直後の地形図まで、深川区では木場の貯木場に頻出していた。――航空「写真1945-50」を見るに、この池には木場の貯木場と同じような物が浮かんでいる。
 西半分について確認したのは森川氏の記述にある「公園(公園の一角にある庭園は有料)に行くことは」とあることが気になったからである。しかし西半分(現・清澄公園)は森川氏の居住当時は工場だったので、この森川氏が遊んだと云う公園は、東京都江東区清澄3丁目3番の南隅にある「清澄庭園(児童公園)」であろう。但し面積は「有料」の「庭園」の方が圧倒的に広いので「公園(有料の庭園の一角にある無料の公園)」とでもした方が良さそうである。
 本書【11】「差しおさえ」は通学路での見聞について述べている。冒頭、51頁2~5行め(=『昭和下町人情風景』にも、Ⅱ 下 町【10】「差しおさえ」86頁2~5行め)、

 学校へ行くには幾通りもの道があったが、いつもは雲光院の前を通って区役所通り(や/|ぶ通り)へ出て真直ぐに*1三ツ目通りを渡って登校した。
 元加賀小学校の通学区としては、わが家ははずれの方*2にあって徒歩で十五分ほどかか|っ/た。


 雲光院の場所(現、東京都江東区三好2丁目17番14号)は当時も変わらない。
 そして、本書【45】「裏 通 り」に具体的な記述を見るのである。冒頭、193頁2行め~194頁1行めまでを抜いて置こう。

 わが家は四メートル足らずの幅の裏通りに面して玄関があり、反対側にある勝手口は、/裏通りに平行している二メートル足らずの幅の路地に面していた。
 わが家の勝手口の前には、裏の家の勝手口があり、その家の玄関前はまた、四メートル/足らずの幅の通りだった。
 つまり、二間*3あまりの道路にはさまれて二側の家並みが続き、その間にある一間の路地/に面して両側の家の台所や便所があった。勝手口のわきには黒い大きなゴミ箱が一軒ごと/に置いてあり、路地の真中のドブは厚いドブ板でおおわれていた。
 われわれは、通りと平行したこのような裏路を、路地とはいわなかったように思う。
 路地とよんだのは、通りと通りを結ぶ細い連絡用通路と、細い行きどまりの道でも、家/の主な出入口のあるところを指していた。
 わが家の面していた通りは、一方は浄心寺の墓地の塀に突き当る丁字路、一方は八百/【193】屋、酒屋などがある通りへ突き当たる丁字路だった。


 以下、12年半を過ごした裏通りについての回想が続くが、場所の特定にはここまでで良いだろう。
 浄心寺(現、東京都江東区平野2丁目4番25号)の墓地は、「今昔マップ on the web」を見るに地形図「1927~1939年」や航空「写真1945-50」で、既に現在の航空写真と範囲が変わらなくなっている*4。この墓地に突き当たっている道路は、墓地の北北東側、現在の江東区三好2丁目の1番2番の間、2番3番の間の通りで、北側は三好2丁目10番に突き当たって丁字路になっている。この辺りなら雲光院の前を通ると云う通学経路とも合う。
 地形図や航空写真からは分からない裏路があったと云うのだが、条件に当て嵌まりそうなのは現在の江東区三好2丁目2番のように思う。東側か西側かは分からない。(以下続稿)

*1:『昭和下町人情風景』は「区役所通り(や|ぶ通り)へ出て、真直ぐに」とする。

*2:『昭和下町人情風景』は「ほう」。

*3:ルビ「けん」。

*4:本書150~152頁【34】「浄心寺の空地」に墓石や人骨が積み上げられていたこともあった浄心寺裏の空地のことが回想されている。