瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

同盟通信社調査部 編『國際宣傳戦』(2)

 前回、内海朝次郎(1900~1946.12.9)は8月歿か、と見当を付けて見たのですが、違っていました。
 前回触れた「一記者の戦中・戦後」との副題の2冊は閲覧の機会がなかなか得られそうにありません*1が、新聞通信調査会HP「メディア展望総目次(年)」から、内海紀雄の父について述べた文章を読むことが出来ます。
新聞通信調査会報」第471号(平成14年2月1日発行・定価一五〇円・24頁)7頁
・「大通信社目指した先人たち/父の日記に見る怒濤の時代
 内海朝次郎の日記から、新聞聯合の逓信省担当記者時代の昭和7年2月2日、6日、5月15日、9月27日条を引き、岡村二一(同盟通信社会部長)や進藤誠一(逓信省電務局長)の談話、蔵書への書入れから同盟通信設立までを略述、そして昭和16年12月4日付浅野豊(同僚)宛書簡や郷里での闘病日記の昭和19年12月8日条を引いて、戦争への感慨や、その最期、歿後のことなどを述べています。
 これは3段組1頁のごく短い文章でしたが、改題後継紙「メディア展望」(定価一五〇円・新聞通信調査会)にて、これを大幅に増補した「一通信社記者の「昭和」~その軌跡を手紙と日記に見る」を「(Ⅰ)」から「(XIII)・完」までの13回にわたって連載しております。
・第581号(平成22年6月1日発行・36頁)6~8頁「「反動化」と電聯合併の動き」(Ⅰ)
 1回3頁で3段組、1頁めは右上、上段・中段の6行分を2段抜きでタイトル、左右に一点鎖線の二重線があって、その間にまづ大きく各回の題(1字下げ)、次に横長のやや大きく「一通信社記者の「昭和」~その軌跡を手紙と日記に見る(Ⅰ)」と3字下げであり、次に下寄せでやや大きく「内 海 紀 雄  」そして最後に小さく「(大阪本社代表、専務・元朝日新聞社代表取締役)    」と下寄せで名前に添えています。
 連載の内容を窺うために、冒頭部を抜いて置きましょう。

 手紙と日記は歴史を記述する際の一級史料であ/る。日記が書いた本人・遺族の下に残るのに対し/て、手紙の場合、普通は読了後に適当に処分され/てしまう。残るのは偶然の要素が大きい。
 私の父・内海朝次郎(一九〇〇~四六)は、/「新聞聯合」と後身の「同盟通信」の政治記者だ/った。聯合時代は逓信省を約七年間担当した。/『時事新報』で逓信省を持った佐藤喜一郎氏(後/に同盟・社会部長)は、「通信社は通信という字/を使っているためか、逓信省の監督下にあるの/で、記事のほかに社としていろいろ連絡の要務が/あり、それで内海〔という〕人材を送っているこ/とが後でわかった」と著書『最後の記者馬鹿*2』に/書いている。「社の要務」の一つが同盟設立工作/である。
   「世をあげて反動化せんとす」
 父の通信社時代は、満州事変後の「戦争の昭/和」と重なる。調査部長としてアジア・太平洋戦/争の開戦に際会した。戦時中に闘病生活を余儀な/くされ、敗戦後に四十六歳で死去したが、計七十/四通の手紙類が同僚や部下、取材先、親せきに保/存され、没後三十年して返ってきた。断片的なが/【6上】ら日記も残った。共に激動の昭和を刻む。
 昭和七年、満州事変の翌年(一九三二年)分だ/け小型の手帳日記が残る。一㌻が四区画(四日/分)の小さなスペースだ。何日かに一回、短行の/記述を残した。


 以下、見出しの位置と図版のキャプションをメモして置きましょう。6頁下段17行め、2節め「「陸海軍人の暴挙」――5・15事件」 に5月15日条、日曜日で鎌倉の自宅にいたとのこと。7頁上段左に写真、下にゴシック体横組みで「聯合記者時代の内海朝次郎(昭和初期)」とのキャプション。7頁中段8行め、3節め「国家代表通信社設立へ逓信省が主導権」、下段左に写真、下にゴシック体横組みで「「聯合電通合併問題が床次逓相の病気から進捗せず」と郷里へあてた巻紙の手紙(昭和10年9月2日付)」、8頁中段5行め、4節め「密命与えた古野総支配人」、下段13行め、5節め「「電聯合併、進捗せず」」、最後、28行めに下寄せで「(注・表記は現代仮名遣いに改めた)」とあります。余白はありません。
 昭和7年(1932)から昭和21年(1946)までで、それまでの経歴、すなわち学歴や「長崎新聞」時代のことなどは分かりません。(以下続稿)

*1:古書店のネット販売で購入することも出来ますが、一時的に利用する本も買ってしまおう、と云うほど裕福ではないので――結果的に、買った方が安上がりだったことも、実は少ないないと思うのですけれども。

*2:ルビ「ばか」。