昨日の続きで、新聞通信調査会HPの「メディア展望総目次(年)」から、内海紀雄「一通信社記者の「昭和」~その軌跡を手紙と日記に見る」の(Ⅷ)から見て行きましょう。要領は5月5日付(2)に同じ。
・第588号(平成23年1月1日発行・32頁)17~19頁「東京初空襲の「謎」と「心配」―戦局転換へ」(Ⅷ)
17頁上段1行め、1節め「新橋駅で高射砲の音と火の手」昭和18年(1943)4月18日・21日の日記に見える、昭和17年(1942)4月18日ドーリットル空襲の回想。中段9行め、2節め「米軍機の径路と性能は?」昭和17年4月24日付浅野豊宛書簡。18頁上段11行め、3節め「「物資が続かず勝てない」と断言」昭和17年7月下旬、体調を崩し郷里で約1ヶ月静養。小倉在住の従兄平山源一郎(1888~1975)を訪ね戦局を語る。帰京の途次、台風のため福岡で下車、病気のため物資不足の東京ではなく福岡勤務を希望するが却下(昭和17年9月11日付浅野豊宛書簡)。9月21日、同盟通信の機構改革で企画局(新設)の審査部長(新設)兼資料部長になる。同郷の後輩阿野勝太郎(1908~1942.9.5)の戦死。上段左に写真「佐藤(喜一郎・社会部長)、山崎(義人・庶務部長)、/村田(為五郎・解説部長)、萩野(伊八・政経部長)/の各氏の名前を挙げながら浅野豊氏の本社帰還を待望/する巻き紙の手紙=昭和17年10月6日付」。下段中左に写真「審査兼資料部長の頃の/内海朝次郎」背広姿、胸から上。左に写真「大森・馬込の住まい(電柱右の二/階建て)。戦前はまだ電話が珍し/く、近所の家々が借りに来た=昭/和30年代撮影」。19頁上段6行め、4節め「急速に伸びる米軍需生産」昭和17年は11~12月の断片的な日記が残る。11月6日・21日条を引く。中段9行め、5節め「入院、部長の職を退く」昭和18年(1943)1月から3ヶ月、入院して結核の免疫療法を受ける。2月初めの機構改革で編集局参事となる。日記2月4日条。中段26行め、6節め「大平氏が編集局長、松本氏は海外局長に」入院中の日記に見える見舞客。
・第589号(平成23年2月1日発行・36頁)22~24頁「日本出版社構想の挫折と横浜事件」(Ⅸ)
東京で静養中の日記、昭和18年(1943)9月17日条。22頁上段19行め、1節め「「日本出版社」の設立構想」古野伊之助同盟通信社長の構想。下段24行め、2節め「父の同盟出版部拡充計画のメモ」榛原製の便箋のメモ。23頁上段23行め、3節め「設立推進に動いた父」昭和18年9月の日記に放送協会の実力者訪問。郷里での日記・昭和19年(1944)12月15日条、細川事件(横浜事件)で、社団法人「日本出版社」構想の同盟通信に集められた人材の検挙について記す。下段25行め、4節め「留守宅に給料を送り続けた古野社長」昭和19年12月20日(受信?)浅野豊書簡。24頁上段27行め、5節め「出獄の栗林一石路と再会」日記の昭和18年4月20日条、同盟通信調査部嘱託の俳人・小沢武二(1896.12.5~1966.3.29)来訪、俳句を見てもらい、俳句弾圧事件で栗林一石路とともに投獄されていた橋本夢道(1903.4.11~1974.10.9)の保釈出獄を知る。5月に保釈出獄した栗林一石路は7月6日に来訪。中段左に写真「「横浜事件」で父の元部下が検挙されたこと/を伝えてきた元同盟調査部次長の植松尚男氏」下段左に写真「「日本出版社」の件で動いたことを示す/昭和18年9月17日の父の日記。日本放送/協会を訪ねている。」
・第590号(平成23年3月1日発行・40頁)22~24頁「戦局悪化に「我ら覚悟を要する時」と記す」(Ⅹ)
22頁上段1行め、1節め「続く撤退と玉砕」、2~3行め、
昭和十八年は日記がほぼ残っている。三年目に/入った戦争に関する記述を抜き出してみた。
として、1行分空けて2月3日・10日・14日・4月25日・5月28日・30日・6月5日条を抄録。
中段15行め、2節め「ドイツ軍敗北、イタリア降伏」、16~17行め、
退院後の父は自宅静養を続け、同僚・友人から/戦況の情報を入手している。‥‥
として、続けて日記の抄録。6月23日・7月11日条に浅野豊来訪。9月11日条に日本放送協会報道部長高橋武治訪問。7月7日・27日・8月2日・12日・9月10日条。
下段26行め、3節め「「祖国」の運命と一体化」5月29日・4月16日条。23頁中段10行め、4節め「戦争を論理的には肯定?」6月5日条、中段左に写真「「伊太利 米英へ無条件降伏」「日本の困難も加/重」と記した昭和18年9月9日の父の日記」。24頁上段8行め、5節め「蔵書に京都学派の文献」。中段15行め、6節め「秘め続けていた批判精神」2月16日・3月17日・4月21日条。「刊行されたばかりの伊藤/正徳著『新聞五十年史』の読後感」。(以下続稿)