瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

伊藤正一『黒部の山賊』(5)

 ①初版、②新版、③定本、④文庫版の関係について。
・初版カバー裏表紙の竹節作太の紹介文
 ①のカバー裏表紙、右側の余白の上部、縦組みで「●ほんとう /にあった話 /当時毎日新聞担当記者竹 節 作 太」とあって、明朝体縦組み2段組の紹介文。この竹節作太(1906.4.17~1988.8.12)の文章は①②1~2頁(頁付なし)に序文のように掲載されている「“黒部の山賊”を報道したころ」を要約したもののようである。なお Wikipedia は「たけふし さくた」と読んでいるが、1頁2行め、下寄せで「竹 節 作 太」にルビ「たけ ぶし さく た 」と明らかに濁点がある。五十嵐とか中島とか、地域によって清濁が異なる苗字があるが「竹節」の読みはどちらが正しいのか、ちょっと分からない。まづ上段を見て置こう。

 終戦から一、二年間の日本はすべ/てが狂っていた。
 二十二年の春、私は飛驒の蒲田の/谷にはいったところ、三俣蓮華に山/賊が出ると猟師たちが話してくれた。
 その年の六月、戦後初のウェスト/ン祭が上高地で開かれ、槇有恒氏や/松方三郎氏らと入山した。その集り/でも山賊の噂でもちきりだった。【上】


 1~2行めは1頁3行めでは、

 終戦から一、二年間の日本は、すべてが狂っていたようだ。

となっている。紹介文だと「すべてが狂っていた」代表例として「山賊の噂」が持て囃されたかのように読めるが、1頁4~8行め、

 そんなとき、狂人たちの群らがる東京から、ちょっとの間でも逃れて、山のふところに抱か/れたいものと、ひたすら願った。
 しかし、モロコシ粉のむしパンとタクアンだけでは、身体がもたないし、ボロボロのシャツ/やズボンに軍隊のドタ靴では、山の寒気もしのげないといった状態だった。
 当然、そのころのアルプスは、荒れ放題、さびれ放題であった。

とあって、少なからぬ登山を愛する人々が「狂」った「東京」を「逃れ」て「山」に行きたいと思っても、食糧も装備も満足でないために叶わず、人気の「アルプス」でさえ荒れ寂れていたのを「すべてが狂っていたようだ」と表現したもののようである。
 昭和22年(1947)の竹節氏の見聞については、1頁9行め~2頁5行め、

 二十二年の春、私は飛騨の蒲田*1の谷へ入ったところ、「双六から 三俣蓮華にかけて、山賊が/出る」と、猟師たちが話してくれた。双六谷で、たんまりイワナを釣ったら、毛皮を着た恐ろ/しいヒゲ男が三人現われて、「おれたちの領分を 荒らしやがって」と、えらい権幕ですごんだ/ので、イワナをすっかり投げだして逃げ帰ったという。
 その六月初旬、戦後初めてのウェストン祭に上高地へ行った。毎日新聞の記者として取材に【1】おもむいたわけであるが、まだバスが運行していなかったので、松本からトラックをやとって/行った。槇有恒さん、松方三郎さんら*2ベテランをリーダーに、生きのよい学生が二、三十人い/っしょだった。
 これらの学生の中から、のちにたくさんのヒマラヤ遠征隊員が出た。
 このウェストン祭の集まりでも、山賊話が評判になった。

と見えている。蒲田川は笠ヶ岳槍ヶ岳穂高岳・焼岳の西側(岐阜県側)からの沢水を集める、双六岳や三俣蓮華岳はその源流(左俣谷)のさらに北(北北西)に当たっている。
 槇有恒(1894.2.5~1989.5.2)は日本山岳会の前会長(1944~1946)、松方三郎(1899.8.1~1973.9.15)は当時の会長(1946~1948)で、昭和22年(1947)6月14日に、戦時中取り外されていたウェストンのレリーフを復旧、これが第1回のウェストン祭である。前回見た新聞記事はこのウェストン祭の取材に基づいて書かれたもののようである。
 松方氏については、5月7日付「同盟通信社調査部 編『國際宣傳戦』(04)」に見た、「メディア展望」第584号、内海紀雄「一通信社記者の「昭和」~その軌跡を手紙と日記に見る(Ⅳ)」に、内海朝次郎が昭和14年(1939)11月に China 出張の際に会ったことが見えていた。14頁上段6~11行め、

 南京では十一月、前同盟政治部長の大平安孝支/局長(後に同盟編集局長)と再会した。上海では/激戦の跡や同盟中南支総局の屋上から市街地を撮/影。松方義三郎総局長(戦後、共同通信専務理/事)の見事な資料整理に感嘆した。松方氏は同盟/の初代調査部長だ。


 松方氏は松方正義(1835.二.二十五~1924.7.2)の十五男で義三郎が本名であるが三郎を名乗り、後、三郎に改名した。
 そして下段、

 その前年、濁小屋*3で慈恵大生が二/人殺されたり、銀行破りが山に逃げ/こんだという「銀嶺の果て」の撮影/が行われていたので、山賊話が色づ/けされ、噂が大きくなったのだろう。
 本書にくりひろげられる山賊話は/この噂の真相をつきとめた三俣蓮華/の小屋主、伊藤正一氏のウソのよう/でいて、興味つきない本当の話である。


 前半は2頁6~10行め、

 その前年に、高瀬渓谷の濁小屋で、慈恵大生四人が、同宿の二青年のために強盗殺傷された/事件があった。
 同じころ、白馬岳で「銀嶺の果て」という、銀行破りが山へ逃げこんだ筋の映画のロケーシ/ョンがあった。この映画は、黒澤明脚本、谷口千吉監督で三船敏郎のデビュー作だったが、こ/んな話が山賊話を色づけて、ますますうわさを大きくしたのだろう。

を纏めたものである。
 濁小屋殺人事件は本文、②1節め、11~40頁「山賊たちとの出合い」の章の2節め、16頁9行め~19頁6行め「そのころの世相」、16頁10行め~19頁6行め「濁小屋殺人事件」に説明がある。③④も同様であるが、②には17頁左上の紙名日\不明の「(日曜木)   日一十月七年一十二和昭  (二)」の日付・頁付のある「慈大生二名慘殺さる*4/〈烏帽子山/麓濁小屋〉容疑者二名を逮捕」の複写が載り、昭和21年7月9日(火)深夜に起こった事件であることが分かる。但し記事の全文は収まっていない。
・『銀嶺の果て』昭和22年(1947)8月5日公開

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 未見。後半は14~15行め、

 いずれにしても、本書にくりひろげられる山賊話は、このうわさの真相をつきとめた三俣蓮/華の小屋主、伊藤正一氏が記す、ウソのようでいて、興味つきない本当の話である。

を纏めている。本文が「いずれにしても」で承けているのは、11~13行め、

 しかし、事実はそんなにスリルに富んだものではなく、イワナカモシカでもとって、少々/もうけてやろうと、三、四人の猟師が山小屋にたてこもった程度のことではなかったかと、今/にして思う。

と、噂の真相についての推測が差し挟まれていたからである。
 ①のカバー裏表紙に戻って、右側の白地の最下部、横組みでやや大きく「実業之日本社/   260円  」とある。(以下続稿)

*1:ルビ「がまた 」。

*2:ルビ「まきありつね・まつかたさぶろう」。

*3:ルビ「にごり   」。

*4:「二」は右寄せ、「名」は左寄せ。