瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

内館牧子『必要のない人』(2)

 久しく歩かなかったせいで臀部の肉が落ちていたせいか、起きたら尻が痛かった。しかし午後まで持ち越さなかったから大した痛みではない。まぁせいぜい3時間乗り続けただけなのである。今日は朝から晴れて、昨日と同じ時間に都内に自転車で出たら、途中でへたばってしまっただろうと思ったが、日が傾き出してから風が出て来て、昨日よりも凌ぎ良いように感じられた。都内の図書館にはまだ2館貸出しを受けているのだが、1館はまだ来るな、とHPで告知している。もう1館は今週出掛けるつもりだったのだが、中旬に返却期限が延長されたので再来週に行くつもりである。昨日の3館よりは、距離・高低差ともに楽な道のりなのだが、気温・湿度・日差しそして降雨との兼ね合いを考えないといけない。まぁ日が陰り始めてから出掛けるのが良さそうだ。今は分散登校や部活動をしていないせいか、夕方に学生の移動は少ないようだ。通勤している人たちと合わないように、一応ルートはそのつもりで確認してある。それとも、再来週には分散登校も終わって部活動も再開して、児童生徒がうようよしているのだろうか。しかし、今日の午前で、もうマスクで外出するのは止めた方が良さそうだと思ったのに、これから、もっと暑くなったときにどうするのだろう。
 以下、2日前に書いて置いたのだが後回しにした。そしたら都知事がオリンピックの規模縮小を言い出した。だから、ずるずる引き延ばさないでくれ。早く完全に中止にしてくれ。国内のスポーツが無事再開されるかも微妙なのに、全世界から選手だけでも集めて、無事に開催出来ると思っているのか。政治的に利用したい一心でしがみついているようにしか見えない。――もう選手村は予定通り分譲してしまえば良いではないか。

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 朝日新聞の記者が、政治家や官僚に密着して信頼され、情報を取ってきた先輩たちを尊敬する、みたいな Tweet をして批判されていた。確かに批判に値するだろう。
 そして、2014年4月20日付(1)に取り上げたこのドラマを思い出したのである。
 風間杜夫(1949.4.26生)演ずる大新聞の敏腕政治記者は、芦田伸介(1917.3.14~1999.1.9)演ずる政界のフィクサーに取り入り、気に入られて、情報を漏らしてもらうことでスクープ記事を書いて、それで次期政治部長も確実、と誰もが思う位置を占めるに至るのだが、今も同じようなやり方をして、と云うか、今はいよいよこのようなやり方ばかりに頼って、よくニュースで目にする、誰だか分からない「××党ベテラン議員」の本音発言を取っているのだろう。大した見識とも思えないのに、涙ぐましいことである。
 ちょっと見直す訳に行かないので記憶で書くので間違いもあるかも知れないが、――風間杜夫は、芦田伸介に出馬を打診されて、政治記者を続けたいと断るのである。記者だから総理にも会って取材出来る、しかし政治家になったら1年生議員と云うことで総理と話すなんてことは出来なくなる。そういう説明をしていたと思うのだが、もう1つ、恐らくは新聞社入社以来の、政治部長になると云う夢の実現が間近であることも、政界入りを躊躇させた理由であろう。世間は、その道でこれ以上出世の見込みがなくなったから、伝手を頼って政治家に転身したのだろう、と邪推するものなのである。
 しかし、芦田伸介としては目を掛けてやった風間杜夫の裏切り、――自分が特種を授けてやっただけだのに独力で情報を得、今の地位を築いたかのように思い上がっているのを、フィクサーらしく直接顔には出さないけれども腸は煮えくり返っていて、たちまち圧力を掛けて確実であったはずの風間杜夫の次期政治部長就任を潰し、閑職へと左遷させるのである。
 そして、このやり方を上手く使えば、すなわち、餌をやって手懐けて子飼いの子分のようにしてしまえば、政治家はいくらでもメディアを操れるのである。風間杜夫の頃は、癒着しながらも筋は通す、みたいな気概もあったようだが、東京新聞の記者に発言させないようにした頃の、官房長官のふざけた記者会見に、他社の記者が誰も切り込まなかったのを見ても分かるように、今やポチのような連中ばかりなのである。
 矛盾かつ曖昧な発言を繰り返す総理や官房長官に真面目に食い下がるフリーや外国人記者に、そんなことを必死に聞いてどうするよ、と冷笑を浴びせるような、自ら思考しないような連中が政治記者として出世してしまう。倫理観もあったものではない。
 所謂ネトウヨが目の敵にしている「朝日新聞」も、もう駄目である。今やネトウヨに攻撃して頂けるような上等なものではない。いや、昔から駄目だったのだが現政権になって決定的に駄目になった。退職してから暇になった父は読んだ本の著者(昔と違って奥付に現住所が載っていないので版元宛)や新聞・雑誌の記事の筆者に手紙を出すようになって、真面目に書いているのでたまに返事をもらったりするのだが、朝日新聞のコラムの筆者にも手紙を出して、文通が続いているのだが、その人も最近の社内外の息苦しさをそれとなく漏らしていた。
 そして、私はこうなってしまった理由の1つに、オリンピックがあるように思えて来たのである。
 昨日*1、いやもっと前から書いているけれども、多分出来ない、仮に先進諸国で感染を抑止出来ていても全世界の祭典としての開催はほぼ不可能になったとしか思えないオリンピックに対し、メディアの報じ方が「期待」一色に染め上げられている不気味さについて書いたが、オリンピックこそ、政治とメディアが絶対的に癒着する舞台なのである。
 慢性的に部数減の新聞、SNSの発達で視聴率が低迷するテレビにとって、オリンピックこそが干天の慈雨のような存在だった。2016年オリンピック招致の失敗を見ても分かる通り、国民は元々オリンピック開催に積極的でなく、2020年オリンピック招致に対しても同様であった。しかし、政治とメディアがオリンピックを利用したがった。
 私はスポーツは嫌いではない。しかし、多大な資本を投じて、大袈裟に演出してやるようなことかと思う。そもそもスポーツなどと云うものは道楽の範囲であって、それをこのように大袈裟な、金儲けの手段にしてしまった奸智に長けた人々を憎む。
 オリンピック招致に成功しても、喜んでいない人が相当数いたと思う。しかしマスコミは盛り上げたい。そういう意見を見て見ぬ振りをする。皆が期待しているかのような空気を作ろうとする。そして、やはりオリンピックを利用したい政治といよいよ癒着した。こうして、誰も反対出来ないような空気が無理矢理、表面上、醸成されるとともに*2、マスコミはオリンピックを利用させてもらう見返りとして、政治に屈したのである。
 この辺りの分析はもっと細かく為すべきであろうが、今は見当を示して置くに止めよう。とにかく、現政権はオリンピックも巧く利用してマスコミを手懐けて行ったのである。或いは、見当外れかも知れない。しかし、民主党政権時代の置き土産である今回のオリンピックの招致*3から、するする(ずるずる?)と憲政史上最長の在任期間に繋げたように見えるのである。(以下続稿)

*1:6月7日追記】「昨日」としたのは6月1日付「図書館派の生活(7)」のことで、本稿は5月末から構想していたが前置きに述べたように下稿を書き上げたのは6月3日だから「一昨日」とすべきであった。この他に若干の誤字・誤記を訂正した。

*2:今でも、コロナウィルスがなかったとしても開催に賛成ではないと云う人は少なくないと思う。政治やマスコミの涙ぐましい努力、彼らが反対意見が存しないかのように振舞うことで、何となく賛成しないと悪いような気分にさせられてしまっただけの人も少なからず存するであろう。だから中止になってもそんなに悔しがらない人も、多いだろうと思う。

*3:2016年オリンピック招致は自民党政権時代で、2020年オリンピック招致も石原慎太郎都知事が言い出したのだが。