6月9日付(13)に引いた、ちくま文庫『絶望図書館――立ち直れそうもないとき、心に寄り添ってくれる12の物語』の、編者・頭木弘樹「入れられなかった幻の絶望短編」に記憶に基づいて書いた、阿知波五郎「墓」の粗筋について、今回はその続き、後半(345頁14行め~346頁12行め)を見て置くつもりであったが、瑣事に拘って1段落(345頁14~16行め)だけ抜いて見ることになってしまった。
ところで、私がこのような作業を敢えてする理由は、6月7日付(11)に述べた通りである。
【D】図書館の中なので、当然、飲み食いはできません(水だけは飲めたかもしれませ/ん)。飢え死にする気ですから、もちろん、そんなことは承知です。ノートには、飢/えなんかに負けない愛がつづられます。【345】
頭木氏はここに「水」について註記しているが、これについては「墓」の「七月二十一日。」条の冒頭の段落(鮎川哲也『こんな探偵小説が読みたい』424頁13行め~425頁1行め)に次のような、これを裏付ける記述がある。
渇にたえられぬまま、そっと書庫内の手洗の水道栓を開け、思わず口をあてる。ごくりごくり冷い/水が口からすぐ胃の中へ落ちて行くのが判る。腹一杯飲み干して、ほっとして旧*1の椅子に戻る。本を/手当り次第持出してくる。外で蟬声しきりである。今日も暑い日になろう。時と共にたてこめた蒸暑/さが、ひしひしと迫り今のんだばかりの水が額や頸すじに汗となって流れ出す。不思議に本を開く気/がしない。本を読みうる境地の幸福と安穏をさとり、昔その境地に、何のさとりもなく浸りえた頃を【424】羨む。
ところで、頭木氏の記憶する梗概の、前回引いた【C】に「そのノートが、この作品なのです。」とあるのを誤りだと指摘したけれども、頭木氏がこの作品を【B】「餓死するまでの間ずっと書きつづっていたノート」すなわち餓死日記のように思っていたのは、この、日付を掲げてその日の状況を、主人公の感慨を中心に述べて行くと云うスタイルが影響しているのだろう。その意味で、これらの頭木氏の記憶はこうした日記体のようなスタイルを、確かに反映したものと思われるのである。
そして【C】に「トイレだかに隠れていて」とあるのも、2016年10月11日付(06)に触れたように、隠れるのは書庫の「二階の書棚の隅」で、閉館の準備をして主人公がいることを知らずに閉じ込めてしまう男性を「二階の本の蔭から、じっと見つめ」ることになっているのである。相手の様子が見えない場所に籠もると云うのも、それはそれで効果(後架?)的かも知れないが、やはりここは知らずに自分を閉じ込める男性を見て置いて欲しいところで、それだからこそ『こんな探偵小説が読みたい』カバー表紙折返しの紹介文を始めとして多くの人々に、事故で閉じ込められてしまったかのような勘違いをさせて来た訳である。――それはともかく、この「水道栓」のある場所が「手洗」であることが【C】の「トイレだかに隠れていて」と云う記憶に繋がっているように思われるのである。
頭木氏は粗筋を述べるに当たって、前回引用した【A】の段落の前、345頁1行めに、
内容はよく覚えています。
と前置きしているのだが、確かに、よく覚えていると云って良いと思う。(以下続稿)
*1:ルビ「もと」。