瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

湯浅初江、もしくは湯浅初枝(6)

 湯浅初枝については、その後、目星を付けて置いた新聞や雑誌の記事に当たって見るつもりだったのだが、コロナウィルスのために思うに任せない。
 しかし、今月から鼻中隔彎曲症のために通院している大病院で、具合の悪そうな老人がうようよしているのを目にすると、実は何も気にするに及ばないのではないか、と云う気分にさせられる。そして、どうも、そういう気分にさせたがらせた(?)上で、気の緩みの自己責任にしようとしているのではないか、と思われるのである。
 それはともかく、今回は、その後気付いたことどもをメモして置くこととする。
 7月20日に、Wikipedia 英語版にも「Hatsue Yuasa」項が立てられた。ドイツ語版に基づくもので新事実等はない。もうそろそろ日本語版にも立項すべき時期に来ているのではあるまいか。
 それから、昨年11月に(1)から(5)を投稿した際には見落としていた、大堀聰のブログ「日瑞関係のページ(補足版)」の2018-06-12「<3.箱根丸> 日本郵船 欧州航路を利用した邦人の記録」の3人めに、「湯浅初枝 ソプラノ歌手」が挙がっていることに気が付いた。本文は以下の通り。

1939年7月6日神戸着の箱根丸で帰国したのが、ソプラノ歌手湯浅初枝である。翌日の読売新聞は
日露戦争当時広瀬中佐の名コンビ、旅順港閉塞隊相模丸船長として華と散った湯浅竹次郎少佐の一粒種、声楽家初枝(35)さんが15年振りに6日夜9時神戸入港の箱根丸で、故国の土を踏んだ。」と伝える。
湯浅はドイツで日本人の夫と別れ、ピアニストのワルテル・マイツナーと再婚するが、彼も8年前に死去し日本に戻ってきた。
そして「欧州へはもう行かないつもりです」と語った。

湯浅はドイツでの活躍が長かったので、ドイツ語版のウィキペデイアにも記載があるが、そこでは
「少なくとも1943年まではドイツとドイツの占領地で歌った。それ以降の消息は不明」となっている。これは上に書いた新聞記事に照らしても間違いだと思うが、、、
(2018年7月27日追加)


 この記事は大堀聰のHP「日瑞関係のページ」の「日本郵船 欧州航路を利用した邦人の記録」に転載され、こちらが「最新版」とのことであるが、<3.箱根丸>のやはり3人めに出ている湯浅氏の項は、同文である。
 しかし、Wikipedia ドイツ語版に指摘されている、1943年1月31日(日)15時の Beethovensaal でのコンサートの告知を見る限りでは、その後ドイツに戻ったとしか思えない。
 すなわち「Einzelnachweise」にリンクされている「Führer durch die Konzertsäle Berlins」(ベルリンのコンサートホールのガイド) 第23巻第16号(1942年12月20日)は表紙も含めて16頁、その10頁めの中央やや上、12項並ぶうち6項めに、まづ上に、

BEETHOVENSAAL,sonntag, den 31 januar 15 Uhr

とあって、次に大きく「HATSUE YUASA」とあり、その下に「Am Flügel: Prof. MICHAEL RAUCHEISEN」と添える。これらの右に、太線の上にやや大きく「Die japanische Sängerin」下に小さく「Singt Gluck / Brahms / Strauß」さらにもう1行「Moderne Jap. Lieder u. Volksweisen」とある。ミヒャエル・ラウハイゼン(1889.2.20~1984.5.27)教授のピアノ伴奏で、日本人の歌手がグリュック、ブラームスシュトラウス現代日本の歌謡曲と民謡を歌う、と云うのである。
 第二次世界大戦勃発直前の、不穏な空気を感じて帰国したものの、父母既に亡く兄弟もおらず、大正12年(1923)の、恐らく関東大震災以前にドイツに渡って以来の帰国だとすると、その間の日本の変化にも馴染めなかったのかも知れない。――そんな見当になるのであろうが、今は更なる資料の発掘を俟つより他はない。
 今すぐにでも、箱根丸で帰国した際の、他の新聞の記事を確認したいところなのだけれども。(以下続稿)