瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

赤いマント(262)

・中村希明『怪談の心理学』(14)
 さて、中村氏は昨日見たように、赤マント流言の時代背景を纏めた上で、この節の題である「なぜ赤マントの怪人になったか」に話を進めて行きます。33頁6~8行め、

 こうした少年少女の空想の世界のなかで、トイレの「赤マントの怪談」が定着していく/過程を検証してみよう。なぜなら、筆者ら小学生をふるえあがらせた赤マントの怪人は、/はじめはトイレとはまったく関係のない別の場所に出現していたからだ。


 そこでどんな例を持ち出したのかと云えば、9~12行め(1次下げ・前後1行空け)に2014年1月10日付(080)に見た、『現代民話考』の大阪市の松ヶ枝小学校の例を引用するのです。
 そして、13行め~34頁3行め、

 戦時中の市民生活をあつかった向田邦子の作品には、いかめしい顔をして「トンビ」と/いうすそ広がりの和外套を着こんだ大人たちの姿が出てくる。また、弊衣破帽に高下駄を/【33】はいた旧制高等学校生たちも道中合*1に似た黒いマントを得意げにひるがえして街を闊歩/していたから、暗がりにマントを着てたたずんでいるわけありげな大人の姿は、子供たち/の不安な目に「マントの怪人」として映じたものだろう。

と、マント姿の大人が暗がりにいたのを見た子供たちが、これを「怪人」と取ったのが、そもそもの起こりだろうと推測するのです。
 この松ヶ枝小学校の例については、2014年2月23日付(123)に見たながたみかこ、2019年11月30日付(217)2019年12月1日付(218)及び2019年12月18日付(220)に見た朝里樹も、「赤いマント」もしくは「赤マント」の項に活用しています。ながた氏の例を見たとき、私は中村氏をすぐに想起したのですが、朝里氏のときは忘れておりました。ただ、ながた・朝里の両氏とも、参考文献に『怪談の心理学』を挙げておりませんので、中村氏の直接の影響ではなくて、朝里氏の場合は『現代民話考』から中村氏と同じような筋を引いてしまったのでしょう。そしてながた氏の場合は参考文献に『現代民話考』を挙げておりませんから、中村氏の説を承けた誰かの説を参照したのでしょう。
 しかしながら、私が初めてこの例を取り上げた2014年1月10日付(080)にも、

‥‥確かにマントの怪しい人です。但し「出る」というだけで、ただの変質者かも知れません。

と述べて置いたように、これを赤マント流言と結び付けるのはかなり無理があるのではないでしょうか。いえ、先程引用した箇所に中村氏自身が述べているように、当時は「マントの怪人」の候補になりそうな大人たち・旧制高等学校生が実際に「街を闊歩していた」のですから。そういう人が「暗がり」にいれば、それは直ちに、子供たちにとって恐怖の対象となったことでしょう。
 そして、34頁4~6行め、

 この昭和十年の大阪市での原話が、わずか一、二年たって東京に伝わると「赤マントの/怪人」が人を殺すという恐怖デマにまで増幅される。しかも赤マントの怪人の出現場所も、/子供が無防備な状況におかれる学校のトイレにこのとき限定されるのである。

として、7~12行め(1次下げ・前後1行空け)に、2013年10月24日付(003)に見た、北川幸比古の赤マント流言体験を引用するのです。――中村氏は「あちこちに死体があって」とあるのに何故か「学校のトイレにこのとき限定される」と決め付けてしまいます。それに反撥するかのように、朝倉喬司はわざとこの例の「誰れも学校の便所に入れなくなってしまった」の件りを自身の論考からは省略してしまうのです。今からすると、北川氏の話を報告した望月氏には、もう少し細かい状況まで聞き出して置いてもらいたかった、と思うばかりです。
 それはともかく、中村氏はここで松ヶ枝小学校の例を「原話」と位置付けてしまうのですが、自身がその解釈に於いて述べているように「マントの大人+暗がり=恐怖」と云う図式は、これに限らず何処にでも起こり得たことで、かつ、たったこれだけの話が大阪から東京まで伝播する程の力を持ったでしょうか。『現代民話考』に並べて載ったから、うっかりこのような筋を引きたくなってしまったので、松ヶ枝小学校の例がそこまでの影響力を持ったとは、常識的に考えて有り得ないと思うのです。
 そもそも、前回見た、長野県の豊科小学校の例が「昭和十一年」ではなく実は「昭和十年度」なのですから、松ヶ枝小学校の「昭和十年頃」と同時期のこの時点で既に、長野県松本市近郊の田舎町で、便所を舞台にした「赤マントの怪談」は行われていた訳です。彼此、この辺りの中村氏の筋の引き方は強引で、とてもそのまま依拠すべき説明たり得ていないことは明らかでしょう。
 なお、松ヶ枝小学校の例については、別の解釈、2019年7月15日付(203)に述べたように、実は時期が違っていて、昭和14年(1939)6月下旬から7月上旬に掛けての大阪での赤マント流言の、記憶の断片ではないか、と云うことも考えています。しかし、その場合、話者の生年及び在学時期が判明しないことには、これ以上この可能性で話を進める訳には行きません。――ですから他に傍証の出ない限りは、私はこの例については、ただの変質者情報の可能性が高い、と見做して置くこととします。(以下続稿)

*1:ルビ「ガッパ」。