瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

赤いマント(270)

・中村希明『怪談の心理学』(22)
 2014年1月5日付(075)に細目を示した第一章「トイレの怪談の系譜――デマの心理学」の11節め・43頁5行め「伝達内容の変形」、12節め・46頁13行め「伝説というデマ」は心理学を使ったデマ・伝説の解説です。
 前者は情報の変容・歪曲の仕組みを解説した節で、10節めを引き継いだ記述がありますからそこだけ抜いて置きましょう。まづ46頁3~6行め、

 夕暮の川辺で見なれないよそものの子供を見たという村人のなんでもない目撃談も、人/から人に伝わるうちに、それが数日前に村の子を淵に引きこんだ河童であったかもしれな/いという尾ひれが付される。と、それはにわかに河童伝説の中に同化されて、近隣に噂が/広まることになる。


 次に、10~12行め、

 つまり、便所の下から現れて子供らに危害を加える「白い手」の主は、本来、水辺の妖/怪河童伝説の中に集約される宿命をはじめから持っている。なぜなら、もともと伝説とい/うのはデマの固定したものだからである。


 そして後者では、14行め~47頁3行め、

 アメリカの社会心理学者R・T・ラピエールは「伝説とは民族の言語的遺産となったデ/マである」と定義した。つまり、伝説とは寿命の長い噂話の一つであり、最初のうちはい/【46】ろいろ変型するが、それ以上変わらなくなると安定して時代から時代に受けつがれていく。/しかし、そのデマが伝説になるためには、それが後世の人にも重要な意味をもつ、出生、/結婚、死亡に関するような普遍的な話題が、もっとも民話になりやすい。

として、民族や人類にまで共通する「普遍的無意識」を探る手懸かりとしてユングが民話を利用したことを指摘し、16行め~48頁1行め、

 このように考えると、現代の民話である「学校の怪談」にも、立派に精神分析の手法が/【47】応用できることになる。

と云う風に、話を持って行くのです。
 Richard Tracy LaPiere(1899.9.5~1986.2.2)はスタンフォード大学社会学の教授(1929~1965)でした。――私はこう云った辺りの事情には不案内なので、ラピエール氏やユング氏の所説がどのように日本で紹介されて来たのか、殆ど知識がありません。高校時代の知人に、アニマ・アニムスがどうこう云う本を薦めて来た奴がいて、私も読まされたのですが、私はどうももっと表面的な現象に拘う正確なので、その方面には深入り出来ませんでした。
 そしてまづ手始めに、13節め・48頁2行め「白い手の恐怖と思春期の性不安」にフロイトを応用して見せます。この節は9月3日付(264)の最後に触れたように、7節め「なぜ赤マントの怪人になったか」の最後で、唐突に赤マントの出没場所を学校の女子トイレに限定してしまったことと絡んで、と云うか、漸くここに来てその説明が為されるのです。この節は如何にもフロイトと云う感じ(!)なので、全文を抜いて置きます。フロイトについては、大学の一般教養の心理学の授業で習ったのでラピエール氏やユング氏の所説よりは知っている(!)つもりです。
 まづは前半の導入部分を見て置きましょう。48頁3~9行め、

 トイレの怪談が女子のトイレに多いのは、そこが妖怪のひそみやすい閉鎖空間だからと/いう理由だけでは説明がつかない。なぜなら、用便のためにパンツをぬいだ無防備な姿勢/でうずくまる肉体的な不安は男女に共通しているからだ。
 しかし、無防備な箇所を下にさらすのが一ヵ所ではない女子生徒の場合に、恐怖はさら/に倍増するからではなかろうか。実際に地方の民話に、昼寝していた農家の嫁が、秘所に/蛇にもぐりこまれて死亡する話がある。
 筆者はトイレの怪談が女子生徒に多い本当の理由が、ここにあると思うのである。


 この辺りに関連する中村氏の体験は、2014年1月7日付(077)に抜いて置いたように、この章の5節め「「赤マント・青マント」の恐怖」に述べてありました。私はそこで為されていた説明で良いのではないか、と思うのですけれども。
 他の研究者の「トイレの怪談」に関する見解を、今直ちに提示出来ませんが、無防備になる空間だからと云う意見は、常光徹辺りも述べていたと思います。しかし、女子生徒が多いと強調し、その理由を性的な事情に結び付けるようなことは、していないようです。(以下続稿)