瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

中学時代のノート(16)

・昭和56年頃に聞いた怪談ノート(13)後篇③ 怪談(その八)磔の男

 19頁6~17行め。

 河■■■■という子も、こわい話の本をもっていて、こんな/話をした。
 
「ある男が何かして、はりつけにされて、やりで殺された。」
と、みんなが、
「どこがこわいんやァ」
というと、エイちゃん、
「絵がこわいねん」。
 
 彼の話だと、その本のさし絵がこわいということだが、こ/んな話はこわい話じゃないと思っている。あたりまえだ。し/かし私はこんな話しかおぼえていない。


 校訂案。

 河■■■■という子も、こわい話の本を持っていて、こんな話をした。
 
「ある男が何かして、磔にされて、槍で殺された。」
と、みんなが、
「どこがこわいんやァ」
と言うと、エイちゃん、
「絵がこわいねん」。
 
 彼の話だと、その本の挿絵がこわいということだが、こんな話はこわい話じゃないと思っている。当り前だ。しかし私はこんな話しか覚えていない。


 河■君は今も地元にいて、ちょっとした顔役のようになっているようだ。
 私はこの絵を見せるよう、エイちゃんに何度か頼んだことがある。エイちゃんと特に親しい何人かの級友は見せてもらっていたようで、その級友連中も「絵がこわいねん」と言うのである。その苛立ちが文面によく表れている(笑)。
 結局、この絵が何だか分からない。以前、思い出して検索したこともあるのだが、それらしい画像はヒットしなかった。一時期、絵が怖い話(?)として2011年1月6日付「村松定孝『わたしは幽霊を見た』考証(01)口絵」に取り上げた、「昭和27年,大高博士をおそったほんものの亡霊」がそれではないか、と思ったこともあるのだが、あれは磔ではない。
 この大高興博士の体験の一部始終は、2014年9月20日付「遠藤周作「幽霊見参記」(05)」に取り上げた、標題が紛らわしいMF文庫ダ・ヴィンチ『私は幽霊を見た 現代怪談実話傑作選217~235頁に再録された、大高興「幽霊の実験」の前半(218頁3行め~223頁10行め)に見えている。354頁【底本一覧】には「大高興「幽霊の実験」      『津軽霊界下界』北の街社」とあって、『津軽霊界下界』には2011年1月23日付「「木曾の旅人」と「蓮華温泉の怪話」拾遺(08)」に触れているが未見。

 しかし、これは少年少女講談社文庫C-14『わたしは幽霊を見た』よりも後の刊行である。この「幽霊の実験」の初出か、別に何か雑誌などに書いたものが典拠になったのであろう。或いは、「文春オンライン」の「夏に読みたい「怖い話」」に2019年8月16日に掲載された、福澤徹三「見開いた眼、歯を剥きだした口……ワイドショーで見た“あの絵”に心臓が凍りついた理由」からも窺われるように、パクリ(剽窃)も含めた複数の経路があったのかも知れない。この福澤氏の文は末尾に「初出:オール読物 2013年8月号「極私的エッセイ 怖い!」より全文転載」とある。
 差当り必要な箇所のみ摘記すると、

 小学校低学年の頃、従姉の家へ遊びにいったとき、漫画雑誌の付録かなにかで怪奇特集の別冊があった。当時からその手の本が好きだった私は夢中になって読み耽ったが、そのなかに小学校の用務員が描いたという幽霊の絵があった。用務員は夜勤の際に見まわっていた教室でそれと遭遇し、あとからスケッチしたらしい。子どもの眼にも稚拙な絵だったが、下手ななりに迫力はあった。幽霊はざんばら髪で眼を見開き、歯を剥きだしている。首にはなぜか穴があいて血が流れているのが印象に残った。
 それから十数年が経ったある日の午後、実家でひとりテレビを観ていた。なにかおもしろい番組はないかとチャンネルを変えたら、昼のワイドショーで心霊特集をやっていた。番組の途中から観たせいで、そこに至るまでの経緯はさだかでないが、廃校となった小学校の前に女性がふたり立っていた。ひとりはレポーターで、もうひとりは霊能者だという化粧気のない中年の女性が立っていた。


 その後の番組の内容が福澤氏の「心臓」を「凍りつ」かせ「全身に鳥肌」を「立」たせる*1のだが、

 以上の体験を私は小説やエッセイに書き、対談やイベントでも口にした。するとその絵なら自分も見たというひとが何人もあらわれて、ついに書名が判明した。『わたしは幽霊を見た』(村松定孝著 少年少女講談社文庫)である。
 古書店で入手してみると、あの絵はまさしくこの本に載っていたが、私の記憶にあるような漫画雑誌の別冊ではなかった。しかも絵を描いたのは青森県の医師、大高興さんだった。1952年、大高さんが下北半島むつ市の病院で目撃した幽霊のスケッチが、なぜ私の記憶では小学校の用務員が描いたことになったのか。この本を読んだおぼえはないものの、ただの記憶ちがいかと思った。しかし記憶ちがいだとすれば、ワイドショーで霊能者が描いた絵や、それを亡夫と称する女性はなんだったのか。以前ネットで調べたら、大高さんの絵に酷似した絵を霊能者が描くのをテレビで観たという書きこみがあった。霊能者は天井の隅を観て描いたとあるから、あの番組が実在したのはたしかだろう。また‥‥

と、新たな謎が生じたことを告げて、結局どうなったのか、福澤氏の読者ではない私には全く分からない(福澤氏がこの絵に触れた「小説やエッセイ」や「対談」も、これまで読んだことがなかった)のだが、「小学校低学年」が正しければ、それはやはり村松定孝『わたしは幽霊を見た』ではないと思うのだ。
 福澤氏は昭和37年(1962)生、月日は公表していないらしいが小学校入学は昭和44年(1969)4月、早生まれであれば昭和43年(1968)4月入学である。そうすると、低学年を小学2年生までとすれば昭和46年(1971)3月、3年生までとしても昭和47年(1972)3月までである。早生まれであれば1年早まる。村松氏の本の刊行は昭和47年11月だから福澤氏が「小学校低学年の頃」は刊行前だった。――それこそ、講談社の雑誌編集部が大高氏に取材し、絵の写真を撮影して「漫画雑誌の別冊」に収録、それを村松氏の本に(村松氏の意志とは無関係に)使い回した、と云う経路で宜しかろうと思うのである。とにかく、『わたしは幽霊を見た』刊行の少し前、福澤氏が「小学校低学年の頃」の、講談社の「漫画雑誌の付録かなにかで怪奇特集の別冊」を一度、徹底的に調べて見てはどうかと思うのだが、如何であろうか。(以下続稿)

*1:2021年1月24日追記】「「全身に鳥肌が立」たせる」としていたのを訂正。