瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

中学時代のノート(22)

・昭和56年頃に聞いた怪談ノート(19)後篇⑨ 怪談(その十一・下)あの老婆は死神か

 昨日の続きで平野威馬雄『お化けについてのマジメな話』に載る、原話と思われる中村四郎の談話について、具体的に検討して行こう。
 27頁1行め、1字下げで「あの老婆は死神か」と題して、2行めから31頁8行めまで本文。冒頭部、6行めまでを抜いて置こう。

 それから……こんなこともありました。
 誰一人、信じてくれなくても、そんなことはどうでもいいのです……絶対に、ほんとうのこと/で、私が、まざまざと、体験したことなのですから。この事実は、亡びやしません。
 わたしは、今から六年ほど前に、東大の病院で、胃潰瘍の手術を受けました。
 九月一日に入院しまして、すぐその翌日に手術でした。


 ■本先生の話の舞台は「大阪」だった。病名は分からないが夏に過労で高熱を発したことになっている。手術はしていない。
 前回引いた「二人の訪問者」の前置きの書き振りからして、平野氏の自宅を中村氏が訪ねたのは昭和49年(1974)のことと思われる。そうすると「六年ほど前」は昭和43年(1968)か、前年の昭和42年(1967)と云うことになろう。
 7行め~28頁4行め、ガス麻酔が十分効かないまま、意識のある状態で手術されたものの手術自体は無事に済む。28頁5行め~29頁3行め、

 昼間は七階の病室の窓から、上野の動物園のモノレールがみえますし、夜は夜で、御徒町のネ/オンの灯が暗い夜空を美しくいろどっていました。
 順調に回復して、三週間たったところでした。
 その夜、変な夢を見たのです。私のベッドのまわりを、大小さまざまなガイ骨が、十人ばかり、/まるでわたしを見舞いにきたみたいに、枕もとにあつまり、ひそひそと話をしているという、ま/ことに妙な夢でした。
 すると、その翌日から突然発熱して、重症患者に逆もどりしてしまいました。そして、枕もと/に、「重症」のしるし「赤丸」を貼られました。
 そして、毎晩、かならず二時という時刻に、痔から二百ccも出血します……しかも、医者が/どんなにしらべても、全く原因不明なのです。
 担任の先生はもちろん、上の方のえらい博士がたも来て下さいましたが、いずれも首をかしげ/るだけでした。【28】
 こうしたことが、毎日、毎日くりかえされ、さかんに輸血をしてもらうのですが、ま夜中の二/時……となると、きまって、出血なのです。これには、どういう手当てもできず、医者先生方も、/途方にくれた様子です。


 この辺りの経過も全く異なっており、■本先生の話にはこの病状悪化の切っ掛け(?)となった第一の怪異は存しない。――ここまで、中年男性が入院したという点が一致するのみで、他はまるで違っている。何処が原話やねんな、と思う人もいるかも知れないが、この次が一致するのである。4~13行め、

 ところが、幾日目かの晩……夢の中に、七十歳ぐらいの、見たこともない老婆があらわれまし/た。
 背たけが低く、白いキモノを着ていました。
 髪は白くのび、のどには喉頭癌の手術をしたらしく、ガーゼを絆創膏で、とめてありました。
 呼吸*1をすると白いガーゼがひらひらとうごいていました。
 わたしの枕もとに立って、私をじいっと見下ろしているのです。
 おそろしい顔というわけではないのですが、いかにもさびしそうな青白い顔なのです。
 はじめの夜は私から一メートルほどはなれて立っていました。
 二日目の夜の夢では六十センチくらいまで近くなりました。
 三日目の夜の夢では三十センチくらいまでになり、こごんで私の顔をのぞきこみました。


 老婆の容姿と、3日掛けて顔を覗き込むまでの経過は合致する。1日めから室内にいることと、笑顔ではないことは異なっているが、そこを除けばほぼ一致、特に、特異な容姿の一致は大きい。
 但し、これは夢なのである。14行め~30頁7行め、

 ずっと、つきそいで看護してくれていた妻が、
「まいばん、うなされているけど、どうかしたの?」と、きくのです。
「うん、いやな夢を連続してみているんだ」【29】
 といっただけで、夢の内容は語りませんでした。
 死神が夢に出てくるなんて話したところでバカにされるのが関の山ですから。
 毎晩の夢に死神をみるようではもう、私の命も、そう長いことではあるまいと、さびしくかな/しい思いでした。
 昼間輸血してもらいながらも、私は手帖に、二人の子にのこすための遺書などをしたためてい/ました。
 悪くすると、もう、近いうちにあの世へ行くことになるぞ……と思いました。


 ■本先生の話も、夢で見ていたのだと解釈出来なくはないけれども。
 次の場面は、この怪異の時期を特定するために見て置こう。8行め~31頁2行め、

 担任の若い医者に、
「手術をしてくれた博士のかたは、その後ずっと見えませんが、なぜ、来て下さらないのです/か?」と、ききますと、
「あの先生は学会があって京都に行っている。月曜日でないと帰ってこない」とのこと。
「今日は水曜日でしょう。私は日曜日の夜あたり死にそうな予感がします。だれかほかの先生に/も見せて下さい。おねがいします」
 と、懇願しました。
「患者がそんな事まで心配するようではしようがない」といって、他の科から、年とった先生に/来てもらいました。【30】
「この人は痔からの出血がひどいのです。病名は、やはり、痔ですね」
 と、はっきりと診断してくれて私は助かったのです。


 正直、これは縦割り医療(?)に基づく見立て違いによって殺され掛けていた、と云うことになるんじゃないの? ――その意味で、老婆の死神こそが中村氏を救った、と云えるであろう。
 それはともかく、昭和43年(1968)だとすれば9月1日(日)に入院して2日(月)に手術、骸骨の夢を見たのは23日(月)の週で、老婆の夢は29日(日)30日(月)10月1日(火)2日(水)の4日連続で見たことになる。昭和42年(1967)とすれば9月1日(金)に入院して2日(土)に手術、骸骨の夢は23日(土)の週末以降で、老婆の夢は10月1日(日)2日(月)3日(火)4日(水)の4日連続と云う見当になる。丁度秋の学会シーズンだった、と云うことになろう*2
 そう、■本先生の話では3日めに老婆が死神であると気付いて、精神力で次第に遠ざけ、追い払うのだけれども、原話では4日めに断りを言うことになっている。3~8行め、

 その夜の夢にあらわれた老婆に、
「私には、六年生の男の子がいます。とても今、死ぬわけにはいかないのです。ですから、もう/今後、絶対に私をさそわないで下さい」と、きっぱりことわりますと、とうとう死神の老婆は一/言も口をきかず、その夜が最後で、もう二度と出て来なくなりました。
 どうぞ、みなさんも、病床で死神の夢をみたら、気もちをつよくもって、たたかって下さい。/さそわれて死んではたまりませんからね。


 中村氏の話はここまでで、老婆の正体は語られていない。「喉頭癌の手術をしたらしく」と察するばかりである。
 さて、この中村四郎の体験談が原話で間違いないとすれば、■本先生は、『お化けについてのマジメな話』を読んで、或いは 別に中村氏本人が著書に書いたのを読んで、教室での反応を確かめながら脚色した、と云うことになろうか。が存在するとして、そしてそれがよりも詳細にわたっているとしても、大筋ではと変わらないはずで、相違点はやはり、■本先生の脚色とせざるを得ない。確かに、3日めに目を覚ますと顔の真上に老婆の笑顔があって「ワアァ」と云う辺り、9月21日付(13)の引用で注意した(その五)寄宿舎の足音の怪談の、便所で滑った生徒の「ワァァ」と同工だし、やたら「ヒラヒラァ……ヒラヒラァ……」と繰り返すのも「カッタン……カッタン……」の繰り返しと同じことである。――大阪を舞台にしたのも、登場人物に話し慣れた関西弁を使わせる方便で*3、入院直後の3日間に絞ったのもくだくだしい経緯を省くための工夫であったろう。そして、何故老婆が現れたのか、と云う分かり易い結末を付け足したのでは?
 彼此考えると(その五)寄宿舎の足音の怪談の、今の私には抵抗を覚えさせる工夫の数々は、■本先生の努力の賜物であった可能性が高いように、思われるのである。(以下続稿)

*1:ルビ「いき」。

*2:ちなみに、投稿日が9月30日になっているのは、合わせたのではなくて、偶然である。この記事(及びこの註)は9月20日・21日に執筆した。

*3:上方落語では江戸っ子や余程の田舎者(山出し)でもない限り、関西ではない地方の人間も皆、関西弁で喋らせているが。