瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

中学時代のノート(26)

・昭和56年頃に聞いた怪談ノート(23)

 中学2年生、昭和60年(1985)の夏(推定)に書いた、昭和55年(1980)から昭和57年(1982)に掛けて、私が兵庫県明石市大久保町高丘の、明石市立高丘東小学校で聞いた話を纏めたノートの記載は、前回までで全て紹介し終えた。原本の画像は追々追加して行くこととしよう。
 大学3年生のときに、このノートを元にワープロ入力しつつ増補改訂版を拵えたことがあるが、ワープロの入力データは使えなくなっているし、印刷したものも今、私の手許にはない。探して見ようとは思っているけれども。
 以前はこのノートをそのまま公開することに恥ずかしさを覚えたのだが、今になってみるとそのまま公開する方が値打ちがあるのではないか、と思えて来た。
 松谷みよ子が主宰する雑誌「民話の手帖」で「現代民話考」の「学校の怪談」を報告したのは昭和55年(1980)、私のノートはその頃から3年間の記憶の取り纏めで、聞書ではないが、それに近い。昭和60年(1985)と云えば後に「学校の怪談」の権威(?)になる常光徹が、生徒の知っている怪談を調べ始めた年で、私はその同じ年に、似たような作業をやっていたことになる。
 但し、残念なところもある。――常光氏は昭和61年(1986)に「学校の世間話」と題してその成果を発表するのだが、このノートはまさに「学校の世間話」の報告になっている。常光氏はその後「学校の世間話」を「学校の怪談」と言い換えて、つまり学校に通っている世代が知っていて、主として学校で語られる話を全て「学校の怪談」にしてしまい、私たちの感覚する、学校が舞台となっている怪談という印象と齟齬しているのだけれども、転校生で3年間しかそこにいなかった私にとっては、学校で聞く話がほぼ全てだったから、まさにこれこそが元祖「学校の世間話」と云うべきものになるのかも知れない。僅か14話(関連して思い出した話も含めれば17話)ではあるけれども、話者の口吻を止めようと努力している点では常光氏よりも意識が高かった、と敢えて言って置こう。尤も私は、5年生になる頃にはいっちょ前に関西弁が喋れるような顔をしていたけれども、所詮3年間しかいなかった余所者で native speaker ではないから、どの程度再現出来ているか、そこは甚だ覚束ない。
 ただ、やはり、9月25日付(17)に確認したように、南向きの緩斜面の、開発されたばかりの新興住宅地の、開校して5年の小学校では、話題が少なすぎた。御覧のように高丘東小学校を舞台とする怪談は全く収録されていない。兄に聞けば何かあったかも知れないが、私は聞いたことがない。もし、これが「七不思議」でもあるような学校であったなら、まさに活きた「学校の怪談」体験レポートになったろうに、そうはならなかった。そして、情報源は殆どが教師なのである。新興住宅地で、新しい住宅を買ったり、新しい団地に住もうと云う人々は、余り古い与太話を好まなかったのであろうか。生徒から聞いた話は殆ど記憶に残っておらず、残っていても(その七)や(その八)に挙げた程度のものである。教師から聞いた話は充実していると思うのだけれども、(その五)や(その十一)に窺われるように、情報の蒐集と効果的な語りのために、かなりの工夫がなされているようなのである。この辺り、当時の教師だった人たちから、どういう「こわい話」対策をしていたのか、確かめてみたい欲求に駆られている。もしコロナウィルスがなくて、私ももっと健康で経済的に余裕があれば、それこそ今回初めてSNSにて消息を知ったエイちゃん辺りに頼み込んで、連絡が付く限りの同級生や教師に声を掛けてもらって、このノートの内容について確認をしたいところなのだけれども。
 結局、私が活きた「学校の怪談」に接し、生徒自身の怪談文化のようなものに触れることになるのは、転居先の横浜市で、新制中学発足時に開校した古い、マンモス校の「七不思議」を調査したときのことになる。中学進学の昭和59年(1984)に少し筆記し、さらに昭和61年(1986)夏に級友や部の同輩・後輩から聞書き、そして兵庫県に転居して進学した兵庫県立高校で昭和62年(1987)に級友の出身校の怪談を中心に調査を進め、年度末の昭和63年(1988)3月に一応の報告を纏めている。――年齢的に仕方がないとは云え、常光氏に若干の後れを取ってしまったことが残念なことであった。
 それはともかく、修正液も持っていないのにいきなりボールペンで書いたのは、初めから、真剣に記憶を甦らせつつ書ける自信があったからであろう。しかし、その結果は少なからぬ誤字と、記憶が前後しても修正出来ないから好い加減に誤魔化して書いてしまうと云う、御覧の通りの妙な本文の作成であった。但しこれについては昭和61年(1986)と昭和63年(1988)に推敲、修正する機会を作ったから、これには叩き台としての意味が十分にあったと言えるであろう。しかし、そこで推敲したのは話の内容だけで、回想部分には手が着けられなかった。それは平成5年(1993)にこのノート全体を増補修正しつつ書き改めたことで解決した、すなわち、走り書きの草稿のようなこのノート自体には、もう意味がなくなった――私の感傷以上の意味を持っていないように思ったのである。
 しかし、今回初めて、ノートの記載内容を入力して、そのまま紹介することにして、私なりに様々な発見があった。そして、もう少々このノートの意義を喧伝しても良いように思えて来た。ただ、今の私にはそこまでの余裕がない。上記、昭和59年から平成5年に掛けて纏めた報告や、聞書などを当ブログに報告しつつ、追々考えて行くこととしたい。(以下続稿)

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 9月19日から今日10月4日まで、念のためタイトルと本文に「入院中」として予約投稿して置いた。幸い、そのまま投稿せずに済んだのだけれども、その事情については追って述べることになろう。念のため断って置くと、コロナウィルス陽性だったからではない。PCR検査は受けたけれども。
 このノートの公開は数年前から計画していたことではあるが、今回踏み切ったのは入院前後の体調不良の中で、他人の本を読んで検討する記事を準備する余裕はなかったからである。――思った通り、入院の数日前から始めて、退院予定日まで事前に準備することが出来た。その後も入力の方は順調に進んで、自宅療養の、口呼吸しか出来ず少々熱っぽい中、約2週間後まで記事を用意することが出来た。
 入院のことは後でゆっくり書く(と思う)。入院中、思っていたことは、――ここでコロナウィルス感染者に《濃厚接触》したら、こりゃひとたまりもないな、と云うことである。それもあって、いよいよ、私がくたばってしまったら何の価値も付与し得なくなるノートを公開しなければ、と思った。今後も、稿本や聞書ノートの発掘に努め、できる限り報告することとしたい。(9月21日記。後、微修正)