瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

畑中幸子『南太平洋の環礁にて』(4)

北杜夫『南太平洋ひるね旅』との関連(1)
 私が本書を読もうと思った切っ掛けは、北杜夫『南太平洋ひるね旅』に著者の畑中幸子が「H嬢」として登場するからです。
 しかしながら、本書には「プカルアに渡る準備のためタヒチに滞在中、わたしは紀行執筆のため南太平洋を一人で旅していた作家の北杜夫さんに会った」みたいな記述はありません。これは追って取り上げる予定の「I氏」こと岩佐嘉親『南海の楽園』も同様です。学術的な著述に私的なことを差し挟むまいと思ったのか、特筆するほどのことではないと思ったのか、――書いてあった方が売れ行きも良かったろうと思うのですけれども。
 まづ11月2日付「赤いマント(295)」に引いた『南太平洋ひるね旅』の「H嬢‥‥はここで原地の言葉を覚え、スクーナー船で一ヵ月もかかる僻地の島に渡るつもりだという」との記述を裏付ける箇所を見て置きましょう。
 1~22頁「Ⅰ ポリネシア人を探しに行く/――フランス領ポリネシア――」、まづエピグラフ風に文語(現代仮名遣い)の詩が5字下げで5行、末尾にやや小さく「(タヒチの伝説)」と添えてあります。1行空けて以下13節、節の題は1行の場合は2行取り、2行の場合は3行取りで、半角分下げてゴシック体でやや小さく入る。この題の下、1字分か1字弱空けて本文。1節め、2頁6行め~3頁11行め「はるかなるくに 」の冒頭の段落、2頁10行めまでを抜いて置きましょう。

タヒチから東にむかって長い船旅についてから、かれこれ四年余りの時間が流れた。/わたしはタヒチで旅のくつろぎすらえられなかっただけに、思えば未知の世界であ/ったプカルアにかなり欲の深い期待をよせていた。それは人類学を研究している一/介の学徒がもつ調査の収穫のほかに何かわれわれの社会に欠けているもの、われわれの社会か/ら忘却されているものに眼がひらかされるのではないかというひそかな期待であった。


 4節め、5頁8行め~6頁17行め「新しい神さま  」の、最後の段落、6頁12行め以下、

 一九六一年、わたしはタヒチ島に渡った。タヒチが東ポリネシアの中心であることは昔も今/もかわらない。しかしそこには、すでにわたしの思っていたポリネシア人はいなかった。多く/の民族の血が混ったタヒチ人であった。ポリネシア人としての誇りもなければ、祖国ももたな/い彼らは、享楽に生きていた。タヒチ人に限ったことではないが、かつてのポリネシア人の栄/光はすでに彼らを征服した人びとの国の博物館にうつされていた。タヒチの人をよせつけない/までに奥の深い谷間に栄枯盛衰の歴史が秘められていた。


 続く5節め、7~8頁13行め「ポリネシア人をもとめて 」の冒頭の段落、7行めまで、

わたしはタヒチ人ではなくポリネシア人を探した。こうなれば執念のようなも/のである。トゥアモツ群島の最果てにでかけてみよう。交通のことは考えなか/った。無駄な時間や消耗、文明社会からの孤立といった条件にあっても、いく/先に人間がいる限り研究に限らず、人間を理解するというだけでも必ずうることがあるという/確信が前進させるのである。この最果てのプカルアへ寄るスクーナーは二~三カ月に一回とい/う。これくらいのことで足ぶみしていると何らできない。太平洋のど真中である。わたしは逆/に未知ののに対する期待がましていった。


 2段落めの最後、14~17行め、

‥‥。プカルアは人口が二二〇人ほど/で、一人で調査するには手ごろであった。も一つ遠方のレアオは、三十年ほど前に集団癩で部/落ぐるみ療養所におくられ、今日もこの病気がレアオから絶えていないという理由で思い止っ/た。ここでわたしはも一つ勇気のない自分を許してしまった。


 本当の「最果て」は「レアオ」なのですがハンセン氏病を理由に断念しております。――この記述は、2017年6月7日付「松本清張『砂の器』(03)」に引いた、関川夏央『昭和三十年代 演習』の的外れな松本清張批判に対する反証としても提示して置きましょう。
 219~222頁「あとがき」は「一九六七年七月」付。その冒頭、219頁2~4行めに、

 一九六一年から六四年まで、西ポリネシアサモアから実地調査をはじめたが、止むをえない事情で一/カ所に落着くことができなかった。ここで扱ったプカルアは、わたしが一番長くいて研究の対象をもとめ/たところである。

とあります。その調査を終えた理由ですが、220頁16行め~221頁2行め、

‥‥。プカルアからタヒチに帰ってきたとき、/眼の前が真暗になった。六四年の後半であった。フランス軍隊がタヒチへ続々やってきていた。核実験の/実施が確認され、わたしは再調査の見通しをたてることができなかった。タヒチでプカルアやレアオから/【220】でてきている人びとを探そうとあせった。世界で物価が一番高いということになっているタヒチでの滞在/は、何もかも使い果していたわたしにはむつかしいことであった。‥‥


 トゥアモツ諸島南部のムルロア環礁で核実験が行われたのは1966年7月2日が最初で、このことは「Ⅰ」章2節め、3頁12行め~4頁12行め「平和よ、いずこへ」の冒頭、16行めまで、

 トゥアモツの静寂と平穏はついにやぶられてしまった。この六月二十日 (一九六六年) の新聞は、七月初め南太平洋ムルロア環礁で核実験を実施する空母フォッシュ/などフランス海軍機動部隊がすでに実験基地のタヒチ島周辺に到着したことを報じ/た。かなりくわしいニュースがはいる。フランスはついに国際世論を無視して核実験を強行し/た。‥‥

とあるのですが、核実験場の建設は1963年から進められていたようです。
 それでは次回、北杜夫『南太平洋ひるね旅』に関連して疑問としていた箇所を突っ込んで確認して見ることとします。(以下続稿)