瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

赤いマント(309)

宮田登の赤マント(6)阿部定と赤マント②

 さて、2つの「阿部定と赤マント」の比較の続き。要領は昨日に同じです。
【2】大宅壮一本田和子の赤マント事件
〔A〕『江戸東京を読む』二八五頁8行め~二八六頁3行め
   『都市の民俗学』62頁8行め~63頁5行め

 阿部定事件のあとしばらくして起こったのが「赤マントの女」事件です。大宅壮一*1と児童文化論の研|究者、本田和子*2/氏の二人が奇しくも「赤マント」を取り上げています。この事件で「赤マント」に狙わ|れているのは女学校の生徒でし/た。
 大宅壮一は「赤マント社会学」の中で、赤という色は人が恐れていた共産党のシンボルであるから、|「赤マント」は/男であると解釈しました。一方、本田和子氏は、赤とは「女の血」を表す色だから、「赤|マント」は女だと言っていま/す。
 本田氏のいう赤マントの女というものは*3、黒いインバネスに身を包んだ老婆であると思われていますが、|唇から犬の/ようにとがった歯がのぞいていて、マントの裏が血のように赤かった。その「赤マント」が|少女を襲って肝を取ること/から、血取りとか、子取り*4とか言われている。子供の遊びである「子取ろ子|取ろ」という子取りの伝統的な遊びがあり/ますが、本田氏はその問題と結び付けて、江戸時代以来の幼|児誘拐*5の遊び「子取ろ子取ろ」とダブル・イメージになる/ような、子供を略奪して生胆や生血*6を抜くと|【62】いう話がベースになっていて、昭和の赤マントになっていくのだろうと推/察しています。とくに若い女|の子が殺されて、血を流す。かつて山中に住み、人々の血をすするという山姥が昭和の初め/【二八五】に「赤マン|ト」という形で出てくるという、いわば伝統的な系譜*7になると、解釈されている。
 山中から都市近郊に現われてくる山姥が子供を摑*8まえて血をすするという、古いイメージが東京の中|のある限定された/空間の中から蘇*9ってくることは、否定できないような気がするわけです。

〔B〕『歴史と民俗のあいだ』187頁9行め~189頁2行め

 阿部定事件のあとしばらくして起こったのが「赤マントの女」事件である。大宅壮一と/本田和子の二人が奇*10しくも「赤マント」を取り上げている。この事件で「赤マント」に狙/われているのは女学校の生徒であった。
 大宅壮一は赤という色が当時人々の恐れていた共産党のシンポルカラ—であるから、/「赤マント」は男であると解釈した。また、本田和子は、赤とは「女の血」を表わす色だ/から、「赤マント」は女だと理解している本田和子「『赤マント』の行方」『ユリイカ』一八―七)。【187】
 本田のいう赤マントの女は、黒いインバネスに身を包んだ老婆であると思われているが、/唇から犬のようにとがった歯がのぞいていて、マントの裏が血のように赤かった。その/「赤マント」が少女を襲って肝を取ることから、血取りとか、子取りとか言われていた。/子供の遊びである「子取ろ子取ろ」という子取りの伝統的な遊びがあり、本田はその問題/と結び付けて、江戸時代以来の幼児誘拐の遊び「子取ろ子取ろ」とダブル・イメージにな/るような、子供を略奪して生胆や生血を抜くという民俗がベースになっていて、昭和の赤/マントになっていくのだろうと推察している。とくに若い女の子が殺されて、血を流す。/かつて山中に住み、人々の血をすするという山姥*11が昭和の初めに「赤マント」という形で/出てくるという、いわばフォークロアの系譜になると、解釈している。
 現代社会にも、こうした話は事欠かない。たとえば都市的犯罪でよくある通り魔事件な/ど、三面記事の報道によく出てくるが、注意してみると通り魔に遭遇した場所に、ある共/通性がある。それは四辻などの交差点や橋の上、橋のたもと、四つ角などである。同様に/これも話題となったいわゆる自殺の名所とよばれる場所がある。一九八二年ごろから、東/京と川崎の団地がその対象となった。T団地は、荒川の川岸、橋のたもとにある広大な団/地。K団地も橋のたもとの高層アパートである。これは偶然の一致といえばそれまでであ/【188】るが、前述してきたように潜在意識のなかに刻まれている民俗空間の一つの特徴といえる/かも知れない。


 大宅壮一本田和子が「奇しくも「赤マント」を取り上げてい」る、と云うのですが何が「奇しくも」なのか、よく分かりません。それから〔A〕では「赤マント社会学」と明示していたのに〔B〕では何故か大宅氏の題目を伏せています。一方〔A〕では名前だけだった本田氏の方は、〔B〕では出典まで明示しているのです。
 本田和子「「赤マント」の行方」は「ユリイカ」1986年7月号に発表されました。
 そして、大宅氏の方は小沢信男 編『犯罪百話 昭和篇』に拠っています。昨日見た前段の、尾久の連続殺人事件や阿部定について述べた箇所は、その「5 阿部定という人」に依拠していました。そして大宅壮一「「赤マント」社会学――活字ジャーナリズムへの抗議」は続く「6 三面記事の世界」の2節め(344~353頁)なのです。
 宮田氏は、12月19日付(306)に参照した「一般財団法人住総研」HP「江戸東京住まい方フォーラム記録」に拠れば、平成元年(1989)に9回開催された「江戸東京フォーラム」の第1回め(第27回)に「都市の語り出す物語」を報告しております。何月か分かりませんが入試時期を外して、以後毎月開催したとすれば宮田氏の発表は4月と云う勘定になります。もちろん1~3月の間に開催された可能性もあります。ちくま文庫『犯罪百話 昭和篇』は昭和63年(1988)9月27日発行、店頭に並んだのは若干早かったかも知れませんが、宮田氏は刊行から半年程のうちに早速発表に活用したことになります。しかし明示しておりません。発表のレジュメには載せていたのでしょうか。もしレジュメに「尾久の奇怪なる連続事件及び阿部定騒ぎ」の原文の複写が載っていたとするなら、フォーラムの参加者たちが、前回指摘した宮田氏の酷い誤読に気付かなかったのか、疑問なのですけれども。
 それはともかくとして、ここまで確認して見ると、宮田氏の「奇しくも」の意味に見当が付けられるように思うのです。――要するに、有名な流言であるにも拘わらず意外に文献の乏しい(と思われていた)赤マント流言について、2年半前に本田和子が「「赤マント」は女だと理解して」取り上げている論考を見て、宮田氏はこれを「都市の語り出す」女性の怪異の「物語」の1つとして、位置付けられると考えた*12ようです。それは「都市の語り出す物語」の後半4節が、12月20日付(307)に見たように「池袋の女」「阿部定と赤マント」「口裂け女」の発生と消滅」「番町皿屋敷」となっていることからも察せられるでしょう。
 そうしたところに、新刊の『犯罪百話 昭和篇』を見て大宅壮一「「赤マント」社会学」を知って、急遽付け足すとともに不思議の感を催して「奇しくも」準備段階で私の眼に入った、と云った感慨を(分かりにくく)書き足してしまったものでしょう。――そうとでも解釈しないことには、流言当時の評論と約50年後の論考と、大宅氏と本田氏の取り合わせの不思議さを敢えて強調する意味は、特にないように思うのですけれども。(以下続稿)

*1:ルビ「おおや そういち」。

*2:ルビ「ほんだ ますこ 」。

*3:『都市の民俗学』は「というのは」。

*4:ルビ「ち と ・こ と 」。

*5:ルビ「よう|じ ゆうかい」。

*6:ルビ「いきぎも・いきち 」。

*7:ルビ「けいふ 」。

*8:ルビ「つか」。

*9:ルビ「よみがえ」。

*10:ルビ「く」。

*11:ルビ「やまんば」。

*12:2021年1月2日追記】「ようと考えていた」を改めた。