瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

赤いマント(311)

宮田登の赤マント(8)阿部定と赤マント④
 昨日の続きで、12月22日付(309)の引用について補足。
 〔B〕では「都市の語り出す」女性の怪異の「物語」と云う構図を崩して、「都市生活者の心意」と云う節に組み込み、赤マントが実は「フォークロアの系譜」に連なっているように「通り魔に遭遇した場所」や「自殺の名所とよばれる場所」にも「共通性」があって、その「基底」にある「都市生活者の心意」に「民俗的要素を発見することが、「都市民俗学」を研究する一つ方向である」と展開させています。
 しかし、私はどうもこの事件の現場に「民俗的要素が発見」出来るとする意見が苦手です。正直、こじつけとしか感じられないからです。「四辻などの交差点」と「四つ角など」は繰り返しで、怱卒の間に書き換えたらしいことが察せられます。これは編集者がチェックするべきでしょう。
 「T団地」は東京都板橋区高島平団地です。昭和47年(1972)竣工。宮田氏は「荒川の川岸、橋のたもとにある広大な団地」としていて、確かに板橋区高島平は荒川の支流である新河岸川に沿っていますが、高層住宅が建ち並ぶ2丁目・3丁目の高島平団地は川からは離れています。「橋のたもと」とありますが、荒川に架かる橋で最も近くにある笹目橋まで 1km ほど離れています。かつ「一九八二年ごろから」としていますが、高島平団地が自殺の名所として有名になったのは昭和52年(1977)4月12日の父子3人飛び降り心中以降らしく、Wikipedia「高島平」項に拠ると昭和55年(1980)に133人に達しましたが、昭和56年(1981)に対策が取られて以後激減したそうです。すなわち昭和57年(1982)には名所ではなくなっていたはずなのです。
 「K団地」は川崎市幸区河原町団地です。昭和49年(1974)竣工。こちらは多摩川縁と云って良い場所にあります。しかし、宮田氏は「橋のたもとの高層アパートである」とするのですが、最寄りの六郷橋下流に 1.2kmほど離れています。やはり「橋のたもと」と云うには苦しい。――どうも、既に枠組みがあって、そこに当て嵌めているだけではないか、と思えてならないのです。いえ、若干好意的に解釈すれば、地図を眺めて近くに川があれば、多少の距離は気にならずに、と云うか地図の縮尺なぞ気にせずに「橋のたもと」と云う構図に抵抗なく流し込めてしまえるかのようです。
 「四辻などの交差点」や「四つ角など」にしても、都市であれば十字路は其処いらに幾らでもあるので、私たち都市住民は「潜在意識のなかに刻まれている」そう云った「場所」への不安感から、実態に即なさい治安の悪化を体感してしまうのでしょうか。美濃部都政で川を暗渠にして緑道(遊歩道)にしてしまったのは、どうしても都市では多くなってしまう「橋」を、極力減らそうとしてなのでしょうか。まぁ、私には着いて行けません。
 これにて切り上げますが「阿部定と赤マント」に多々指摘される初歩的な誤り、能美氏や本田氏の記述の読み誤り、そして大宅氏の評論の真の重要性の見落としなど、――宮田氏が多忙を極め、少々やっつけ仕事風にこなさざるを得なかったとして、編集者でも教え子でも、誰か点検を頼めなかったものでしょうか。それが出来ておれば12月21日付(308)に指摘した、能美金之助「尾久の奇怪なる連続事件および阿部定騒ぎ」の、不可解と云って良い誤読も、12月23日付(310)に指摘した本田氏の論の読み誤りと、大宅氏の評論との扱いが普通に考えられる価値とは*1逆転してしまうと云う事態も、或いは避けられたのではないでしょうか。
 ところで12月20日付(307)に見た『宮田 登 日本を語る』全16巻(吉川弘文館)ですが、各巻に「解説」はあるのですが、個々の文章について問題点を指摘したようなものではありません。3頁「凡  例」7項のうち「七、各論文・エッセイ・講演の初出書誌および出典は巻末に明記した。」とあるのですが、巻末「出典一覧」には刊年や版元を添えた出典が列挙されているばかりで、宮田氏の文章の問題点を註記するなどの配慮はなされておりません。しかしそこを放置しては、事実誤認を広めることになってしまいます。選集を出すのであればそうした問題点まで剔出して註釈にて読者に注意を与えて、後顧の憂いがないようにしていただきたかったのですが、どうも民俗学関係の人たちと云うのは、そう云った辺りにルーズなように感じられるのです。(以下続稿)

*1:2021年1月2日追記】「るより」を改めた。