瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

「木曾の旅人」と「蓮華温泉の怪話」拾遺(173)

・青木純二あれこれ(3)泥の中の悲鳴
 青木純二は、2020年12月4日付(172)及び2020年12月3日付(171)に見た「嫁が欲しい」と同じ時期に、雑誌「女性改造」の終刊(号になってしまった)号に、似たような内容の文章を書いていました。
・永畑道子『炎の女―大正女性生活史』1981年10月15日 初版第1刷発行・1982年7月31日 初版第2刷発行・定価 1500円・新評論・302頁・四六判上製本

炎の女―大正女性生活史

炎の女―大正女性生活史

 302~299頁「人名索引」の302頁左4行め、「ア行」3人め、外国人2人に続いて「青木純二……………………………… 228」とあります。
 7章中6章め、215~243頁「女と仕事――自由をもとめて」の2節中1節め、217~229頁「「性的寄生」を脱して」の8項中最後の8項め(228~229頁)に、節全体の纏めも兼ねて次のように、青木氏の文を使用して述べています。項の題は下寄せ。

                                    女のいない村
 最低賃金五十円を要求したタイピストたちに比べて、月十九円の稼ぎ、塩鮭のご馳走は年一度/正月のときだけという小作農の女たちの労働を伝えた「泥の中の悲鳴」(青木純二)という一文/がある。(『女性改造』大正十三年十一月)
 〝農村はもう疲れすぎた〟――と越後の女たちの状況を記して、深夜の駅に風呂敷包を抱いて/十二、三歳から二十歳くらいの娘たちがあつまってくる、夜半十時過ぎ、その数は千五百人位、/集団となって、「会社者」めざして、すなわち紡績、製糸工場へ陸続とつづく若い女たち――/〝とにかく一人でも食べる人間のあることは農村にとって苦痛である〟それゆえに他国へ他国へ/と流れる娘たちのようすを伝えている。
 〝残された村は、何という寂しさであろう。……小作人たちは子どもの世話をする時間さえな/い。朝早く両親が野良へ稼ぎに行く時に、嬰児は乳籠の中に入れられて、一人取り残される。泣/けど叫べど母は居ない。お腹をすかして昼まで待つ、泣き叫びつつ夕暮を待つ、そして汚いもの/の始末もろくにしてもらえずに生長する。だから嬰児たちの何という栄養不良でやせ細っている/ことであろう。母は自分の健康を保つほどの食事もとっていないのだから……〟農村を支える労/働力の過半数が女子の手に移りつつあり、女子有業者の約七割が農業に従事、そして大半が有夫/の女たちで占められていた。
 自立を求める都市型婦人労働者と、底辺の農業、工場、炭坑など、重労働にあえぐ女労働者と、/【228】――際立ったこのふたつの様相をとらえて真に婦人の立場から〝無産婦人の解放〟を叫んだのは、/わずかに山川菊栄社会主義に拠る女たち、現場のひとにぎりの目覚めた婦人労働者たちだけで/ある。
 〝性的寄生〟を脱する意識だけでは、たったひとりの男とのたたかい――家庭という矮小化さ/れた場での〝女の自立〟にとどまる他なかった。〝新しい女〟〝自立した女〟がおち込んだエア・/ポケット=階級意識の欠如は、婦人運動の上でも、つねに尾を曳くことになる。


 「女性改造」は改造社から、大正11年(1922)10月に「改造」の姉妹誌として創刊、大正13年(1924)11月に休刊。不二出版から復刻版『女性改造〔戦前版〕』全12巻・別冊(解説・総目次・索引)が刊行されている。〔戦前版〕とあるのは戦後復刊されているからで、戦後版は昭和21年(1946)年6月復刊、昭和26年(1951)9月秋季特別号で休刊となっている。
 「泥の中の悲鳴」は2020年1月26日付(147)国立国会図書館サーチ及び国立国会図書館デジタルコレクションによって題目だけは上げて置いた。162~208頁「農村婦人の生活」欄の1つめ(162~177頁)で、以下、次のようになっている。
・吉川雪羊子「女敎師の見たる農村」177~181頁
・小川みち子「田畑千圓、馬二百圓」181~185頁
・玉木イシ「小作農の生計調査」185~188頁
・伊澤武子「或日の話」188~192頁
・小野蛙子「村の嫁さんの氣苦勞」192~196頁
・HY「北海道の野良女」196~199頁
・蔡素女「ドン底生活の臺灣婦人」200~202頁
・今紺誠一「夫は海、妻は畑」202~206頁
・古屋梯「雨乞ひの唄」206~208頁
 殆どが、女性読者の投稿であったようだ。(以下続稿)