瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

能美金之助『江戸ッ子百話』(4)

 本書にはその成立事情を窺わせる記述が殆どなく、僅かに2月25日付(1)に引いた『上』1~2頁、鶴見俊輔「『江戸ッ子百話』の読者として」の記述があるばかりであった。そこで2月26日付(2)に『上』、2月27日付(3)に『下』の細目と初出年時を示し、鶴見氏の記述と照合させてもう少し事情を明らかにしたいと思ったのである。
 鶴見俊輔(1922.6.25~2015.7.20)の記述に見える雑誌「時代」の対談であるが、やはり昭和46年(1971)7月の創刊号(未見)に鶴見俊輔・能美金之助「『江戸っ子百話』」として掲載されている。すなわち東京都古書籍商業協同組合HP「日本の古本屋」に、在庫切れだけれども「時代 創刊号 特集/はじまるか?転換の時代 (月刊、1971年7月)」のデータが残っていた。A5判400頁で編集長は橋本進、表紙は片岡球子(1905.1.5~2008.1.16)、執筆陣は他に本多勝一(1932.1.28生)、江口朴郎(1911.3.19~1989.3.15)、久野収(1910.6.10~1999.2.9)、高畠通敏(1933.11.16~2004.7.7)、大沢真一郎、宗左近(1919.5.1~2006.6.20)、ハンス・マグヌス・エンツェンスベルガー(1929.11.11生)、ヘルベルト・マルクーゼ(1898.7.19~1979.7.29)、草森紳一(1938.2.23~2008.3.20)、伊藤成彦(1931.10.24~2017.11.29)、島田豊(1929~1997)、清水哲男(1938.2.15生)、日野啓三(1929.6.14~2002.10.14)、阿部牧郎(1933.9.4~2019.5.11)。気長に閲覧の機会を待つこととする。
 いや、その前に、第四次「思想の科学」を中央公論社で出していた頃(1959.1~1961.12)に、社員だった橋本氏が能美氏を訪ねて「江戸ッ子百話」を借りて来た、とあるから、その当時にもやはり何か書いているはずである。そこで、鶴見氏の過去の著作にも当たって見た。
・人と思想『不定形の思想』昭和四十三年四月一日 第一刷・定価 七五〇円・文藝春秋・431+viii頁・四六判上製本

 148頁下段~284頁上段「小さな雑誌」は昭和30年代、148頁下段2行め~151頁上段13行め「一九五六年四月」から283頁上段7行め~284頁上段19行め「一九六四年九月」の東京オリンピック直前まで、さまざまなサークルのミニコミ誌を取り上げて論評したもの。431頁の裏、viii頁「初稿発表覚え書」に、12行め、

小さな雑誌………………………「中央公論」,「思想の科学」56年4月~64年9月

とあり、429~431頁「あとがき」に標題について説明し、さらに収録した文章のうち4篇を取り上げて簡単に成立事情を述べているが、うち3つめ、430頁8~12行めに、

「小さな雑誌」は、『中央公論』の「日本の地下水」という欄に書いた文章で、この欄は、は/じめ関根弘氏、武田清子氏、私の三人で書いていた。関根氏、武田氏、私に、『中央公論』編/集長の竹森清氏がくわわって、毎月のうちあわせをしていた時期があった。この「地下水」の/欄は、その後『思想の科学』にうつり、中断の時期があった後、執筆者が交替して今も続いて/いる。この欄を命名したのは、中央公論社社長の島中鵬二氏だった。


 関根弘(1920.1.31~1994.8.3)、武田清子(1917.6.20~2018.4.12)、竹森清、嶋中鵬二(1923.2.7~1997.4.3)。――この記述により、橋本氏が能美氏を訪ねて「江戸ッ子百話」を借りて来たのは、この欄の材料集めであったことが察せられる。郵送してもらったり、都内であれば直接出向いて、バックナンバーを借り出したりしたのであろう。「日本の地下水」は「中央公論」では当初、思想の科學硏究會の「サークル雜誌評」としての連載であった。その後「思想の科学」に移り、思想の科学社版の第五次・第六次「思想の科学」まで継続している。(以下続稿)