昨日の続きで、鶴見俊輔『不定形の思想』所収「小さな雑誌」、初出は中央公論社から刊行されていた第四次「思想の科学」の「日本の地下水」、一九六一年八月条について、本書『上』の鶴見俊輔「『江戸ッ子百話』の読者として」などと対照させながら、内容を確認して置こう。
次いで253頁上段3~4行め、
あつまってくる話は、全体として、江戸の遺民精神にう/らうちされている。
として、下段5行めまでこのことについて述べている。その前半を抜いて置こう。253頁上段5~15行め
明治元年、官軍の江戸入城のすぐまえにも、江戸の町人/はわりに政治のことは気にしていないで、「ちかいうちに、/天朝さまと将軍さまとのあいだにたたかいがあるそうだ」/などと、朝風呂に入って、のんきにうわさしていたそうだ。
ところが、将軍側がゆずって、千五百人ばかりの彰義隊/だけが官軍を相手にたたかうことになり、それも負けてし/まうと、彰義隊がわりなくなつかしくなり、刀ばかりで守/っている彰義隊を、山下の雁なべ屋の二階に大砲をひきあ/げてうったことなども憎らしく思いかえされ、安政二年以/来の雁なべがつぶれた時には、いい気味だと思うほどにな/る。
16行め「こういう感じ方」が下段4行め「江戸人のゆうゆうとした遺民精神」だと云うのであるが、この辺り、朝風呂の件は『上』第四十話までをざっと眺めた限りでは見付けられなかった。いづれ精読の機会を得て、分かり次第註記することとしたい。雁鍋については『上』の「第四十話 明治の上野付近」、鶴見氏が参照したとする最新号の冒頭部(186~187頁)に拠っている。
ただ、鶴見氏の記述には誤読があるようだ。すなわち「安政二年以来の雁なべ」とあるが、『上』187頁7~11行め、
雁鍋は江戸時代より続いた最も古い店で「安政二年十月二日の江戸の大地震の時」上野東叡山寛永/寺火除地に宮様が御救小屋建てられたる際、施行者の一人として雁鍋は、
一金五両 及 琉球芋十五俵 上野北大門町居酒渡世 雁鍋万吉
と『安政風聞誌』にもある。
その有名な雁鍋も、明治末年なくなった。その店の跡に「世界」という料理屋ができた。
とあるように、安政二年(1855)の安政の大地震(安政江戸地震)について述べた『安政見聞誌』もしくは『安政風聞集』に雁鍋が見えると云うのであって、これを「安政二年以来」と創業年のように書いているのは妙である。
- 作者:竹内 均
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‥‥。名/家雁鍋のなくなったのはまことに惜しいことだが、江戸ッ子として考える場合、防備の薄弱な山で勇/気と意気のみで戦った少数の彰義隊を全滅させるのに一役かったことを思い、腹立たしさや感傷のた/ねになっていけないから、かえってよかったかとも思う。
とあって、この能美氏の意見を「いい気味だと思うほどになる」と要約してしまったのだとすれば、少々「遺民精神」を掬い上げようとし過ぎていないだろうか。いや、或いは、書籍にする際に加筆訂正が行われて、本文が鶴見氏が「日本の地下水」執筆時に参照したガリ版刷とは違っているのであろうか。
ところで、彰義隊に関する記述について、これは鶴見氏ではなく能美氏の原本の記述の方なのだが、疑問がある。しかしながらこれは別に資料を参照しないといけないので、後日、改めて検討の機会を設けることとしたい。(以下続稿)