瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

奥野健男『北杜夫の文学世界』(4)

 私は資料として使おうと思った書物について、異版がある場合、一応、諸本を確認してその本の由来や改訂箇所など、版ごとの特色なりを確認して置くことにしていて、当ブログはその備忘録みたいなものである。もちろん異版と云うなら、初出まで確認して置きたいところなのだけれども、それはなかなか難しいので、そこまでするのは論文にでもしようと云うものに限っている。しかし最近はなかなか古い新聞や雑誌を閲覧しに行けない。いや、そもそも論文を書いていない。
 別に全部使う訳ではないのだが、何処が入り用になるか分からないし、折角だから一通り比べて置こうと思っているのである。
 本書に関しては①単行本と②文庫版の2つがあって、前回までで比較を終えた。結論としては、①の内容は②に全て収録され、組み方も同じである。②には何篇か追加されているから、内容を見るには②を選べば良いだろう。「掲載書誌紙一覧」に若干の修正があることは確認したが、本文にも訂正があるのかは、きちんと読まないと分からない。しかし、3月12日付(2)を準備するためにざっと内容を眺めた限りでは、単行本そのままの字数・行数で組まれていて、大きな改訂は全くなされていないようである。
 私は北杜夫の読者ではなかったので(と云うか、私が中学時代に読んだ小説は父の書棚に並んでいた新潮文庫星新一くらいなものだが)中央公論社北杜夫作品の、由緒正しき(?)版元であることも知らなかった。中学に上がる頃、父から親しむべき小説家として北杜夫の名前も挙げられたように思うのだが、私は結局読まなかったのである*1
 それはともかく、ここまでの作業は3月11日付(1)に引いた、②207頁「文庫版へのあとがき」の確認であった。ここで、そもそもの本書の由来について述べた①167~170頁②199~202頁「あとがき」の方も検討して置こう。
 そもそもの由来は書き出し、①167頁②199頁2行め「もう三、四年前のことであろうか。例によって北杜夫中央公論社宮脇俊三とぼくとの三人/組が、酒を酌み交しながら、‥‥」と回想されている。そこで北氏がこれまで奥野氏が書いた自分の文学についての文章を本に纏めて欲しいと口にし、宮脇氏もそれに賛同したことが切っ掛けだとする。
 北氏との関係は本書中に度々述べてあるが、この「あとがき」では①168頁②200頁4~6行め、

 北杜夫のことはぼくには他人ごとと思えない。なにしろ中学時代、一緒に理科学部博物班で昆/虫や動植物を採集、観察した仲間であり、北杜夫が宗吉*2と呼ばれていたいわば幼虫時代を知って/いるのだから。‥‥

とあるように、麻布中学校で同じ部活動の先輩後輩なのであった。但しその後交際がずっと継続していた訳ではない。そのことは「あとがき」にはないが、やはり複数の記述がある。まづ、最も詳しい①「北杜夫との交友」=②「鬱の一日」から抜いて置こう。①157頁②185頁9行め~①158頁②186頁16行め、

 北杜夫と会ったのは、いや斎藤宗吉と十二年ぶりに再会したのは、昭和三十年の晩夏、この山/繭が何十何百と水銀灯のあたりをとびまわる夕方の軽井沢の星野温泉入口のバス停であった。よ/【①157②185】れよれのセーターを着て高原バスを待っている男は、麻布中時代の理科学部というクラブの一年/後輩で昆虫の大家として一目置かれた斎藤宗吉少年の少しヒネた姿にほかならない。「おい、宗/吉じゃないか。久しぶり」とぼくが呼びかけると、「あっ、奥野さんですね。これはなつかしい、/奇遇です」と彼もすぐさま応した。十二年間会ってなくても、一目見てお互いにそれとわかった。/驚きはそれからである。なかなか来ない旧軽行きの高原バスを待ちながら、いろいろ話すうち、/彼が去年「幽霊」という自費出版めいた小説をぼくにも贈ってくれた北杜夫というペンネームの/新進作家であることを知った。「道理であの小説にはいろんな昆虫の名前が出ていたね。それに/しろ、昔の斎藤宗吉と一言書いてくれればよかったのに……」「いやそれが、ぼくは奥野健男と/いう素人のくせにぼくの専門の精神病学や精神分析学など使っている生意気な新進評論家に送り/つけたのであって、それがあの麻布の理科学部の先輩の奥野さんとは、今の今まで知らなかった/のであります。だいたい、奥野さんは天文学者か何かになっているはずで、文芸評論家になどな/っているとはケシカランですよ」「ぼくこそ、斎藤宗吉は今頃えらい昆虫学者になっているとば/かり思っていたよ。それが北杜夫なんてへんてこりんな名前で小説を書いているとは。それにせ/よ、あの『幽霊』はよかったよ。傑作だよ。ぼくはあの粗末な造本の『幽霊』を読み、秘かに無/名の天才作家を発見したつもりでいたのだが。それが宗吉であったとは……」などと言いながら、/ぼくは興奮していた。‥‥


 この再会については、「「幽霊」」にも簡略な記述がある。①78頁②84頁13行め~①79頁②85頁2行め、

 ここで個人的な思い出を述べさせてもらうなら、「幽霊」が出た翌年の夏、ぼくは信州で中学/時代の一年後輩であり、同じ理科学部員であった斎藤宗吉と、ひょっこり出会った。バスを待ち/ながら立話をしているうち、なんとこの斎藤宗吉が、あの「幽霊」を書いた北杜夫であることを/知り、仰天した。隠れた天才とひそかに舌をまいていた未知の男は、実は旧知の友人であったの/だ。なるほどあの昆虫気違いの斎藤宗吉なら、「幽霊」のいたるところにちりばめられている、/【①78②85】珍しい昆虫の名前や生態はじめ、野草など自然への深い観察と愛情は、それこそ自然に彼の筆か/らほとばしり出てくるであろうと納得することができた。


 それから「「幽霊」」の対談の最後にも、①88頁②95頁上段2行め、1行分空けて、

奥野 ぼくは「幽霊」を読んだとき、作者が、あ/の中学の一年後輩の斎藤宗吉だとは、想像もつか/なかった。
 ぼくも、新進評論家の奥野健男氏が、あの奥/野さんとは思わなくて送ったわけです。
奥野 斎藤宗吉の場合は、宗吉という名前が印象/的だったから「宗吉、宗吉」と呼んでいたけれど、/上級生と下級生の関係だと、とくに上級生につい/ては姓だけしか知らないよね。
 だいたい、奥野さんは天文とかなんとかをや/っていたから、まさか文学をやるとは想像もしな/かったですしね。
奥野 ぼくも、斎藤宗吉は昆虫学者になっている/とばかり思っていた。
 奥野健男という新進評論家が精神分析をつか/って文芸批評をやっているというので、ぼくはそ/のころ神経科医でしたから、これはけしからん、/生意気なのが出てきたなと思っていたんですけど、/【上】いちおう認められて文芸誌に載ってる人ですから、/送ったわけです。奥野氏がかの麻布の先輩という/ことは、ぜんぜん知らなかったんです。
奥野 軽井沢の星野温泉の入口のバス停でばった/り会ったとき、どっちが先にそう名乗ったか、あ/るいはぼくのほうから、いま評論書いているなん/て言ったのかな。
 さあどうだったか。ただ、奥野さんは、もう/ちゃんとした文芸誌に発表していたし、ぼくは全/然……。
奥野 だけれど、ぼくはまだ東芝の研究所に勤め/ていた。
 ぼくだって慶応病院の医者だった。
奥野 だけど、そういわれてみると、「幽霊」に/は昆虫がさかんに出てきていたことに気がついた。/北杜夫とはまさに斎藤宗吉にほかならないと思っ/たね。

との対話があって、――上級生は「姓だけ」しか覚えていないと云った辺り、私も女子高講師時代、提出物か何かで私を訪ねて来た生徒が、私の「姓」が出て来なくて講師室の入口で窮していたのを思い出す。
 宮脇俊三(1926.12.9~2003.2.26)は奥野氏の東京府青山師範学校附属小学校(現・東京学芸大学附属世田谷小学校)の同級生で、①「北杜夫との交友」=②「鬱の一日」に、①162頁②190頁5行め、昭和33年(1958)の「秋にマグロ調査船照洋丸の船医を志願」そして8~12行め、

 その航海中、「谿間にて」が「新潮」に発表され好評を呼び、ひろく注目されはじめたが、「文/芸首都」に旅先から毎月寄稿した「船上にて」というエッセイが、新しい文明論と笑いを含んだ/卓抜なエッセイなので、小学校以来の親友であり中央公論社の編集者である宮脇俊三におもしろ/いとささやいた途端、宮脇氏はたちまちとりよせて読み、行動を開始し、帰国後北杜夫を説得し、/「どくとるマンボウ航海記」というベスト・セラーに仕立てた。‥‥

とあって、宮脇氏は北氏をベストセラー作家に仕立てた功労者だったのである*3。私は晩年の鉄道紀行作家として、鉄道マニアの知人が崇拝しているのをやや引き気味に見ていただけだったが、その前は中央公論社の名編集者で、①は宮脇氏の中央公論社退社の年に出ているのである*4。(以下続稿)

*1:当ブログで北杜夫の作品を取り上げる切っ掛けとなった『楡家の人びと』も未だに頭から通して読んでいない。注目した人物ごとに、すなわち部分的には、読んでいる。通して読むのに必要になる、かなりの準備を思ってしまうからである。

*2:ルビ「そうきち」。

*3:本書「「どくとるマンボウ航海記」」の本文では「宮脇俊三氏」の、対談では北氏が「宮脇さん」の働きについて述べているけれども、大元に奥野氏の関与があったことには触れるところがない。

*4:本書では、宮脇氏の隣に北氏が住んでいることには触れていない。