瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

佐木隆三『復讐するは我にあり』(2)

 昨日の続き。
・福樹荘の神吉梅松弁護士(2)
 さて、前回参照した大正15年(1926)5月1日現在『東京電話番号簿』に神吉氏の名は見当たらないようであるが、中央区立図書館地域資料室アーカイヴス「電話帳簿」を見て行くと、神吉氏の名前も拾うことが出来るのである。
東京電話番号簿(昭和4年10月1日現在)の「追加電話番号簿2」を見るに、203頁右列41~44件め、

神吉梅松…………………青山36-5737 赤、青山北、一ノ八
神吉梅松…………………茅場町66-0567 日、坂本楓河岸、一四號/(辯護士)
神吉梅松…………………京橋56-6734 京、松屋、一ノ八、(辯護士)
神吉梅松…………………本所73-4705 深、相川、五、上原方

と、同一人物であろうが4行に亙って出ている。「赤」は赤坂區、「日」は日本橋區、「京」は京橋區、「深」は深川區、自宅や関東大震災後の寄留先などでもあろうか。
東京電話番号簿(昭和14年4月1日現在)を見るに、295頁左列47件め「神吉梅松………………九段33-3476 麴、麴町、一ノ一〇、二 〈辯 護 士/辨 理 士〉」とある。千代田区麹町は住居表示未実施地域なので現在も当時のままとすると、千代田区麹町1丁目10番地は英国大使館の南西、半蔵門病院などのあるブロックである。
・『東京中央電話局/電話番號簿 昭和十五年四月一日現在』を見るに、295頁右列5人め「神吉梅松………………九段33-3476 麴、麴町、一ノ一〇  〈辯 護 士/辨 理 士〉」とある。
・『東京中央電話局/電話番號簿 昭和十七年十月一日現在』を見るに、200頁中列9人めに「神吉梅松…………九段33-3476 麴、麴町」と、3列になったため記載内容が少なくなっているが、見えている。恐らく昭和20年(1945)まで麴町區麴町一丁目で開業しており、5月25日の山の手大空襲で焼け出されて後に、豊島区雑司ヶ谷町三丁目の福樹荘に移ったのであろう。――直ちに移ったのか、それとも都内を転々とした末に移ったのか、戦後の電話帳を見れば判るのだけれども。
 家族がいたのかどうか、福樹荘では独り暮しで、殺されるまで半世紀以上現役であった。一体どのような生涯であったのであろうか。移動が自由になったら、当時の新聞や週刊誌報道を確かめることとしよう。
 なお、西口彰事件の記事はネット上に幾つも上がっているが、神吉梅松(1881~1963.12.20)の年齢は81歳とも82歳ともあり、かつ殺害日についても Wikipedia 等には12月29日とあって一定しない。ここでは大判例法学研究所「大判例」の「福岡地方裁判所小倉支部 昭和39年(わ)43号 判決」に、

‥‥、同年十二月二十日、東京地方裁判所の控室で見かけた弁護士神吉梅松(当時満八十二歳)に、民事事件を依頼したいと偽つて電話をかけ、同人の外出先で面談し、自分の兄が今夜お宅にくることになつているからと同人を欺き、同日午後九時ごろ、東京都豊島区雑司ヶ谷三丁目三十六番地福樹荘アパート二階十八号室の神吉方に同行したところ、高齢の同人が独り住いなので、隠れ場所を求める気持も手伝つて、同人を殺害して金品を強取しようと決意するに至り、‥‥

とあるのに従う。29日と云うのは雑司ヶ谷の事件が発覚した日ではないか。アパートの名称も「福寿荘」とする人が多いが「福樹荘」が正しいようだ。しかしこの大判例法学研究所なる組織(?)の正体が良く分からないのである。
 ところで、映画(原作未見)が発覚した日を「12月20日」としているのは、神吉氏殺害が西口彰の最後の凶行であったのを、順序を入れ替えて、その後で、浜松の旅館の女将とその母を殺害することにしたからであろう。29日に神吉氏を殺害したのでは年明けに熊本県で逮捕されるまでの時間が短過ぎる。映画では浜松で、榎津の相手を何度かしたことのあるコールガール(根岸季衣)が、榎津を目撃して交番に駆け込んで逮捕されることになっている。この辺りの時間の流れは、原作とも突き合わせて整理するつもりである。(以下続稿)