瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

池内紀「雑司が谷 わが夢の町」(3)

池内紀の居住歴(3)
 板橋の次に住んだ豊島区雑司ヶ谷であるが、中公新書2023『東京ひとり散歩』の「まえがき」には、ⅴ頁5~11行め、

 雑司ヶ谷には、けっこう長くいた。少し歩くと鬼子母神の境内にきた。樹齢五百年とかの/大イチョウがそびえており、人よんで「子授けイチョウ」、あるいは「子育てイチョウ」と/もいって、若い母親が乳母車を押してやってくる。ヘソの緒を納めるお堂があって、薄暗い/なかに白い箱がぎっしりとつまっていた。十月のお会式にはうちわ太鼓が鳴りひびき、大祭/ともなると数百の提灯がともされた。
 池袋の繁華街から、つい目と鼻のところなのに、まるで別天地のようにちがっていた。雑/司ヶ谷を横切り、いまもチンチン電車が走っていて、‥‥

とあってその時期は示されていない。
 この本は、220~222頁「あとがき」に拠ると、221頁10~12行め「まる二年間、『中央公論』に」「足の向くままいちにち散/歩」と題して連載したものに「東京の雑誌『東京人』に書いた二/篇」を加えたもので、「中央公論」連載は奥付の前(頁付なし)の「初出」に拠ると「二〇〇七年一月号~二〇〇八年十二月号」である。172~179頁「鬼子母神懐古――雑司ヶ谷」はその1篇だけれども、掲載順に収録されていないようだ。1~50頁「Ⅰ 見知らぬ東京」に6篇、51~107頁「Ⅱ お江戸今昔」に6篇、109~169頁「Ⅲ 密かな楽しみ」に7篇、171~219頁「Ⅳ よそ者たちの都」に6篇、合計25篇であることは著者本人が「あとがき」で、221頁15行め~222頁1行め「‥‥、二年間連載の二十四篇と、べつの二/つで二十六篇のはずなのに、何度かぞえても二十五しかない。‥‥」と述べているばかりで、理由は説明されていない。
 それはともかく、「Ⅳ」の1篇めとして収録される「鬼子母神懐古――雑司ヶ谷」の掲載時期であるが、177頁2~3行め、鬼子母神の境内を描写して、

 砂場やブランコはあるが子供の姿がない。ハトだけが賑やかに群れている。弱々しい冬の/陽ざしがななめになって、午後まだ早いのに夕暮れのけはいである。

とあるから、これが執筆のための訪問として、掲載は2月号か3月号の見当になりそうだ。
 それでは「懐古」を含む部分を抜いて見よう。冒頭、池内氏は大塚駅前停留所で都電に乗って鬼子母神前停留所に向かっているが、173頁7~10行め、

 急坂の終わったところが鬼子母神前*1。道路をはさんで古風な停留所がななめに向き合い、/警報器が「カンカンカン」とまぬけな音をたてている。「はじめに」で触れているが、若い/ころ、この近くのアパートにいた。だから警報器の「カンカンカン」が耳の底に残っている。/記憶を思い起こしながら、‥‥


 この踏切の音は今村昌平監督『復讐するは我にあり』でも 01:26:20~26、早稲田方面行「7502」の踏切通過に際して鳴るのを聞くことが出来るのだが、池内氏の住んだ1960年代前半から45年ほどを経ても同じ音だったのだろうか?
 現在の鬼子母神前停留所は、環状5号線と地下鉄副都心線の工事で当時とはすっかり様変わりしてしまった。今年に入って YouTube に、HN「クルーズ大好き・おやじ」が昭和52年(1977)に撮影した都電の 8mmフィルムを上げている。音声は入っていない。
・「昭和52年 都電荒川線 鬼子母神前2021/01/20

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 他にもこの「おやじ」さん(?)が当時の都電を 8mmで撮影した動画が幾つか上がっているが、もう1つ、東京外国語大学最寄り駅から撮った車窓風景も示して置こう。
・「昭和52年都電荒川線 西ヶ原四丁目からの車窓風景」2021/02/25

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 それはともかく「けっこう長くいた」のが「四年あまり」で、「若いころ」が「二十代のはじめ」であること、そして「停留所‥‥の近くのアパート」の具体的な位置も「雑司が谷 わが夢の町」には説明されている。尤も、今は殆どの店が廃業しているので「参道入口の花屋の南を右に入った露地奥のアパート」が何処なのか分からない。現在の豊島区雑司が谷3丁目17番、或いは18番か19番との見当は付くのだけれども。
 いや、「雑司が谷 わが夢の町」に回想される「恋人」は、『東京ひとり散歩』の「まえがき」の方がより具体的である。池内氏は散歩中の、ⅰ頁7行め「ひとり対話」と名付けている、8行め~ⅱ頁1行め「頭の中、記憶の中にお/さまっている」人と、ⅰ頁7行め「足に合わせて気の向くままに話をする」と云う習慣について語っているのだが、その相手は、ⅱ頁2行め「日ごろは忘れているのに、なぜか散歩中にあわられる。こちらから呼び出すこともあ」ると云う按配で、14行め「死者も生者と同じ存在権をもってい」る。そしてその相手の例として2人挙げるのだが、その1人めが7~10行め、

‥‥。たとえば初恋の人を呼び出すとする。丸顔で、目が大きくて、髪はあ/のころはやっていたポニーテイル。笑うと右頰にエクボができた。彼女とはたいてい映画の/話をしていた。だからひとり対話でも、つい先だって試写会で見た映画のことを話すとしよ/う。この間はおのずと二十代はじめの青年になっている。

と云うのである。「二十代はじめ」が共通するところから、この「初恋の人」が「雑司が谷 わが夢の町」に登場する「恋人」と同一人物であることは間違いないだろう。
 20代はじめの4年余り、とすると満20歳の池内氏が大学3年生になった昭和36年(1961)4月をその初めの見当として良いであろうか。昭和40年(1965)11月に満25歳になるから大体その辺りが下限になろうか。そうすると昭和38年(1963)12月の、福樹荘の老弁護士殺し(西口彰事件)のときには池内氏は雑司ヶ谷に住んでいたはずである。しかも、極々近くに。――いや、事件発覚が12月29日とすると、池内氏は郷里に帰省していて不在だったため、騒動を見ることもなく、年明けに上京した際には既に雑司ヶ谷の町は何事もなかったかのようになっていたであろうか。
 さて、ここで池内氏の文章を読む切っ掛けになった、高田書店についてもう一度触れて置こう。――池内氏は「東京人」に「雑司が谷 わが夢の町」を寄稿するに際し、鬼子母神を訪ねたようで、194頁16行め~195頁4行め、

 天を覆っていた並木の大木は、あたまをとめられ、枝を伐られて、もはや見るかげもない。高田/【194】書店は廃業、商店もおおかたがさまがわりした。
 しかし、鬼子母神の境内は寸分かわらず昔のまま、子育ての神さまにあやかるように、昼間は若/い母親が子どもをつれてくる。ハトが群れている。古ぼけた売店が一軒。日暮れともなると、小さ/な電球が一つともる。

と現況を述べている。初出は「東京人」一九九一年三月号だから、早ければ平成2年(1990)の末、遅くとも(と云って締切が発行日のどのくらい前なのか、知識がないのだけれども)平成3年(1991)の初めと云うことになろう。5月6日付(1)の冒頭に触れた、豊島区南池袋の古書店・古書 往来座ブログ「往来座地下」の2002-01-01「番外 ご近所古書店史」に拠れば、平成3年の古書店名簿に高田書店はまだ載っている。そうすると平成2年(1990)の秋から平成3年の初頭に掛けての廃業であったろうか。――何故かこの「高田書店は廃業」の辺りは、ブログ「往来座地下」に引かれていない。(以下続稿)
5月9日追記YouTube にHN「tada4 4884」が投稿した、説明に「1976(昭和51)年~1978(昭和53年)に撮影しました。貴重な白黒写真で構成しました。」とある次の動画に、「鬼子母神前」と題して5枚掲出される。
・「都電荒川線③(東京都)1976(昭和51)年~1978(昭和53)年」2020/05/05

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 ①02:47~52、南から鬼子母神前停留所(三ノ輪行)を望む。遠景だが③と同じ状態らしい。
 ②02:52~57、鬼子母神前停留所(三ノ輪行)に屋根がある。
 ③02:57~03:02、鬼子母神前停留所(三ノ輪行)の屋根はまだなく、支柱は設置済み。
 ④03:02~07、鬼子母神前停留所(早稲田行)に屋根がない。
 ⑤03:07~12、鬼子母神前停留所の踏切。西側の洋品店の看板が上掲「クルーズ大好き・おやじ」の 8mmと異なるが、両者対照することで「いいづか洋品店」らしい。
「クルーズ大好き・おやじ」の 8mm の正確な撮影時期だが、
・「昭和52年都電荒川線 建設中のサンシャイン602021/01/25

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に写る、サンシャイン60の様子から、判断出来るかも知れない。とにかく昭和52年(1977)で間違いなさそうだ。「昭和52年 都電荒川線 鬼子母神前に写る人々がコート着用であるところからして、昭和52年の2月前後と云う見当になろう。
 「tada4 4884」の写真は、服装から夏冬ではないことが察せられるが、撮影期間が3年にわたっており、④→①③→②、と云う順序になりそうだと云うくらいの見当しか付けられない。
 とにかく、鬼子母神前停留所に屋根が設置されたのは、昭和52年か昭和53年と云うことになりそうだ。

*1:ルビ「きしもじん」。「東京都交通局」HPの「停留所情報」に拠れば「きしぼじんまえ Kishibojimmae」らしい。