瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

池内紀「雑司が谷 わが夢の町」(4)

 中公新書2023『東京ひとり散歩』の「鬼子母神懐古――雑司ヶ谷」は、読むほどに「雑司が谷 わが夢の町」を下敷きに書かれたように感じるのだが、対比するとなると全文を抜くことになってしまうのでそれは控えて、最後に「雑司が谷 わが夢の町」の誤りを訂正した箇所と、新たに「鬼子母神懐古――雑司ヶ谷」が誤った箇所を指摘し、その周辺をざっと検討して、一先づ終りにして置こうと思う。
 「雑司が谷 わが夢の町」194頁7~15行め、永井荷風(1879.12.3~1959.4.30)の『日和下駄』に触れ、その一節を引用して島木赤彦(1876.12.16~1926.3.27)の短歌に及ぶ。和歌の引用は2行取り3字下げ。

 永井荷風は『日和下駄』のなかで、東京の「夕陽の美」をめでるには木立ごしがいいと言い、「山/の手の其の中でも殊に木立深く鬱蒼とした処」として、まずは雑司が谷鬼子母神をあげている。/空を蔽う若葉のあいだから夕陽を見てもいいが、晩秋の紅葉のころがとくにおすすめ――。
「夕陽影裏落葉を踏んで歩めば、江湖淪落の詩人ならざるもまた多少の感慨なきを得まい」
『日和下駄』が発表されたのは大正四年、そのころ雑司が谷一帯は豊多摩郡*1の一部だった。早稲田/と王子間の王子電鉄(のちの都電荒川線)は、はじめはもっぱら牧場の牛乳を運んでいたというか/ら、辺りはまだ武蔵野の面影を色濃くのこしていたのだろう。そういえば島木赤彦が「雑司ヶ谷鬼/子母神」と題して歌に詠んでいる。
   武蔵野の芒の 梟 買ひに来ておそかりしかば灯ともしにけり*2


 「鬼子母神懐古――雑司ヶ谷」では荷風に触れた箇所が174頁5~9行めに、

 そういえば荷風の『日和下駄』のなかに雑司ヶ谷が出てくる、東京の夕陽をめでるには木/立ごしがいいと述べ、「山の手のその中でも殊に木立深く鬱蒼とした処」として雑司ヶ谷の/鬼子母神をあげている。空を蔽う若葉のあいだから夕陽を見てもいいが、晩秋の黄葉のころ/がとくにおすすめ。
「夕陽影裏落葉を踏んで歩めば、江湖淪落の詩人ならざるもまた多少の感慨なきを得まい」*3

と少し変えてそのまま用いてあるが、引用に振仮名が打たれている。そのうちに原文は引用出来なくなって妙な現代語訳を載せるか、そもそも存在しなかったような扱いになるであろう。
 島木赤彦の短歌とその説明は177頁4~11行め、

  「武蔵野の芒の 梟 買ひに来ておそかりしかば灯ともしにけり」*4
 島木赤彦が詠んでいる。歌のようすでは日暮れどきにきたのだろう。荷風が徘徊し、赤彦/が名物のふくろうを買いにきていたころ、雑司ヶ谷北豊島郡の一部だった。都電荒川線は/当時は王子電車といって、もっぱら早稲田近くの牧場の牛乳を運んでいた。それとお彼岸の/墓参り、また鬼子母神の参詣客が主な客だった。島木赤彦はひところ牛乳屋をしていたから、/商売のかかわりもあって来たのかもしれない。都電はその王子電車をゆずり受けた。道路で/はなく軌道を走る電車だったので、モータリゼーションのなかでもお目こぼしにあって廃線/を免れたらしいのだ。

とあって「豊多摩郡」を「北豊島郡」に、王子電気軌道(王電)の通称を「王子電鉄」から「王子電車」に訂正している。
 それは良いのだが、新たに、余計かつ奇妙な説明が、追加されているのである。――王子電車は明治44年(1911)8月20日に大塚~飛鳥山間で開業、大塚駅前から鬼子母神前まで延伸開業したのは大正14年(1925)11月12日である。従って『日和下駄』の頃にはまだ王子電車は通じていなかったし、赤彦は開通の4ヶ月半後に歿しているから、鬼子母神参詣に利用することはなかったであろう。しかし、池内氏は「鬼子母神懐古――雑司ヶ谷」では赤彦が王子電車を使ったと決め付けて、「島木赤彦はひところ牛乳屋をしていたから、商売のかかわりもあって来たのかもしれない」との臆断を述べるのである。
 しかしこれは、松村正直(1970生)のブログ「やさしい鮫日記/松村正直の短歌と生活」の2011年06月14日「池内紀著 『東京ひとり散歩』」に、

一つだけ気になったのは、著者が「鬼子母神懐古―雑司ヶ谷」の回で、

武蔵野の芒(すすき)の梟(ふくろう)買ひに来ておそかりしかば灯ともしにけり

という島木赤彦の歌を引いて、「島木赤彦はひところ牛乳屋をしていたから…」と書いているところ。これは伊藤左千夫と混同しているのではないかと思う。

と指摘されている通り、伊藤左千夫(1864.八.十八~1913.7.30)との混同であろう。国立国会図書館デジタルコレクションにて守屋喜七 編『島木赤彦』(昭和十二年十月廿二日印刷・昭和十二年十月廿四日發行・久保田俊彦先生追悼謝恩會・127頁)107~127頁「年  譜」を見ても、そのような事実は窺われない。雑司ヶ谷に関連するのは119頁上段17行め~120頁上段9行め「大 正 六 年  四十二歳」条の、3~5行め「五 月」条に、

郷里より妻子を呼び、十一日市外雜司/ケ谷龜原五に轉居、「アララギ」發行所/を同所に移す。藤澤古實寄寓す。

とあることで、翌年5月5日まで同所に住んでいる。亀原は現在の豊島区雑司が谷1丁目、護国寺の西の辺りらしい。別に島木赤彦の鬼子母神参詣時期はこの期間に限らなくても良いのだが一応雑司ヶ谷との関わりと云うことで示して置く。(以下続稿)

*1:ルビ「とよた ま 」。

*2:ルビ「すすき・ふくろう」

*3:ルビ「せきようえいり ・ごうこ 」。

*4:ルビ「すすき・ふくろう」