瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

東京新聞社社会部編『名人〈町の伝統に生きる人たち〉』(3)

 昨日の続きで、今回は本書の成立について見て置こう。
 229~230頁「あとがき」は最後、230頁17行め、1行分空けて2字下げで「昭和三十八年三月」付、下寄せで「東京新聞社社会部長 新貝博記  」とある。ここは記名だけれども法人著作物であり著作権は消滅していると判断されるので全文を抜いて置こう。
 229頁1行め、5行取り8字下げで「あ と が き」、1頁18行、1行45字、字詰めは本文と同じだが活字は小さく、その分、版面の上下が狭くなっている。229頁2行め~230頁16行め、

 この本は、昭和三十六年十二月一日から約一年の間に、東京新聞都内版・江東版に七十回にわたっ/て連載された「名人」のなかから、四十五篇を選び、まとめたものである。
「名人」を企画したねらいは、次のようなところにあった。
 次から次へと、新しい波が押し寄せてくる時代である。私たちの生活のなかにも、新しい様式がど/んどん入ってきて、そのあわただしい動きに気を奪われがちだ。江戸から東京へ、明治・大正から昭/和へと、何代にもわたって庶民の中に生き、庶民の中に育ってきた日本固有の職業が、後継者のない/ままに消えてゆこうとするのも少なくないという。いたずらに懐古調にふけるわけではないが、私た/ちの生活になじみの深い、古き良きものをたずね歩いて、じっくり味わい直してみようではないか―/―と。
 こうして「名人」はスタート、暮れと正月を休んで、翌年二月十四日までに四十五回を連載した。
 登場を願った四十五人のかたは、ほとんどが世間的にはいわゆる知名の士ではないが、それぞれの/道では〝その人あり〟と知られた人たちばかりだった。その道一筋に数十年――どの顔にも、年輪が/深く刻み込まれていた。重い口で語る修業のつらさ、厳しさは、そのまま人間修業の珠玉の記録だっ/【229】た。どの〝名人〟も、担当記者には祖父母に近い年配。取材の回数がふえればふえるほど、「ますま/す自分たちの甘っちょろさが判ってきて、いやになるばかり」というのが、担当記者の共通の歎きだ/った。
 連載を始めて十回目ぐらいのころから、おほめの言葉やら、隠れた名人を知らせてくれる読者から/の手紙が毎日のようにあった。ありがたい読者の声に励まされて、初めの三十回の予定が十五回もの/びて、二月十四日で一応ピリオドを打った。だが、その後も、読者からの強い要望は根気よく続けら/れ、結局、十月十五日から再び二十五篇を追加して、十一月十三日、やっと本当にピリオドを打っ/た。この書は、こうした読者の支持と、心よく取材に応じていただいた七十人のかたのおかげで出来/上ったといっても過言ではない。この機会に厚くお礼を申しあげる。
 この書をまとめるに当っては、五十一回に登場いただいた庭師後藤幸四郎さん(東京都杉並区久我/山一ノ二六九)のほか、二十四篇を紙数の都合から割愛せざるを得なかった。この一月、突然死去さ/れた後藤さんのご冥福を祈るとともに、二十四人のかたにおわびを申しあげる。
 なお、「名人」を担当したのは、都内版デスク井崎均、森輝夫、赤木陸郎、藤田竜次郎、岸本孝、/富沢慶秀の各社会部員と、岩田房夫、加藤秀雄、鈴木仁、吉武敬能、川口茂明、三島匡四郎、鍔山英/次、宇都宮雍博、杉浦愛之、高木茂男、栗原武宣、安井林一郎、三木和彦、久保田富弘、佐々木敏夫、/松橋久一、山本謹也、星野章、難波竹一郎、北村俊夫、松井太郎。各写真部員である。


 連載は昭和36年(1961)12月1日(金)から昭和37年(1962)2月14日(水)に当初30回の予定が15回追加して45回、10月15日(月)から11月13日(火)にさらに25回追加されて合計70回になっている。本書に収録されている45回分のうち、どれだけが当初予定の30回に含まれていたのか、15回追加、25回の追加の中から収録されている人が何人いるか、気になるのだが【39】「進藤宗郷さん」に、199頁2行め「三十七年二月交通事故で大ケガして以来、‥‥」とあることから、この回は25回追加のうちの1篇らしい。そうすると、掲載順に収録されているのではないか、との見当が付けられそうである。もちろん、交通事故の記述が書籍化に当たっての加筆である可能性もあるのだけれども。紙面にて確認する機会を得たいところである。
 そして連載51回の「後藤幸四郎さん」の死去(1963.1)にしか触れていないところからすると、他の69人は「あとがき」執筆時までは存命であったのであろう。(以下続稿)