瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

駒村吉重『君は隅田川に消えたのか』(19)

吉田正三について(4)
 昨日の続きで、東京新聞社社会部 編『名人 〈町の伝統に生きる人たち〉104頁1行め~105頁15行めを見て置きましょう。

 絵馬は、信心の厚い人が豊作や商売繁昌、病気の全快を祈って神仏に奉納する。たとえば、農業の/神である稲荷さんにはキツネの絵を、天神さまにはウシを、庚申さまにサル、山の神にテング、とい/ったぐあいだ。それぞれの動物は、神さまのお使いと信じられている。
 このほか「め」と書いた絵馬は目の病気をなおすため、井戸から水のふき出た絵は井戸掘りに良い/水を当てる意味と、おデキ吹き出ものの願(がん)。
「もともと、神社へ神馬を献上した上代のころの風習が、絵にかいた馬で代用されるようになったん/ですね」
 だから、絵馬のまわりのワクは、ウマヤのを形どっているという。
 仕事場の板間に、作品を足の踏み場もないほど広げてみせた。どの絵馬も、あざやかな青や黄、赤/で色どられている。ワクの黒が、それらの色を引きしめていた。
 中に、サイコロと錠(じょう)前の絵があった。
「これは、バクチを断つ意味です。酒を断つときは、酒ダルに錠前。まるでクイズですね。江戸ッ子/の好きなシャレを使ったものが、たくさんありますよ」
 十年ほど前、ある婦人が亭主の女狂いを訴えてきた。さっそく、女という字に錠前をかけたものを/渡して慰めてあげたら、泣いて帰っていったそうだ。こんな話を聞きながら、一枚一枚を眺めている/と、古い時代の、素朴な人たちの姿がしのばれるようである。
 材料は、大工さんにととのえさせる。経木を、ワクの裏から打ちつけて下絵具を塗る。絵具は、泥/【104】絵具をスリバチで細かくすり、ニカワを加えて、さらにすりつぶす。
 夏場は、このニカワが腐りやすい。そうかといってニカワの割合を少なくすると、いざ描くだんに/なってニジんでしまう。泥絵具を使って澄み切った色を出すのには、いうにいわれない苦心があると/いう。
 いちばん小さい絵馬が、五寸(幅約十五センチ)もの。尺二(三十六センチ)から、さらに大きい/ものもある。一枚に十回から三十回く/らい、さまざまな色の筆を入れる。も/う一つの苦労は、どんな注文の絵でも/一応かきこなさなければならないこと*1/だ。
「お客さんのいったものが描けないで/は商売になりません。若いころは手あ/たりしだい、そこらにあるものをスケ/ッチさせられました」
 大きな体。太い声が飛び出す。‥‥

 105頁6行めから字数が少なくなっているのは、105頁左下に写真があるからです。これは、仕事場に座る吉田氏を左から写したもので、右手に刷毛を持って下絵具を塗っているところのようです。そして左手を15枚余り積み上げた絵馬の一番上の1枚を取ろうと伸ばしたところで顔はこちらを向いています。黒々した髪に丸眼鏡、Vネックの明るい色のセーターで膝の上に布を掛けています。その手前には、完成した絵馬が綺麗に重ねて20枚くらい積んであります。
 杉村恒『明治を伝えた手』では1つめの発言がこれに関連しています。24頁3~10行め、

「絵馬ですか、絵馬の歴史は古いですよ、/神功皇后に朝鮮より良馬を献じたという文/献も残っていますしね。千住絵馬というの/は誰が見てもわかるのですよ、だからそう/いう手法をくずさない、これは、十五種類/ほどの見本があるのですがね、それも絵馬/の大きい小さいはあっても絵柄は変ってい/ませんねえ」


 神功皇后云々は『名人』の「神馬を献上した上代のころの風習」に関連する訳ですが、このままでは「絵にかいた馬で代用されるようになった」に相当する部分がないので意味が通じません。
 後半「十五種類ほどの見本」があって絵馬の大小にかかわらず「絵柄は変ってい」ない、と云うのは『名人』の「どんな注文の絵でも一応かきこなさなければならない」と食い違っているように感じられます。――『名人』では絵柄は文章で説明するばかりですが、4月12日付「杉村恒『明治を伝えた手』(1)」にも触れたように『明治を伝えた手』には唯一のカラー口絵に、右側、木目が見える下絵具を塗らない小型の絵馬が3つ、左側に一回り大きくて青い下絵具の絵馬が2つ、紹介されているのです。
 右上の絵馬、上部に紅白の幔幕、その下に左、青い烏天狗の面、右に赤い天狗の面。
 右中の絵馬、左を向いて座った、赤い着物を着た猿が柿を手にしている。足許にも柿。
 右下の絵馬、上部に紅白の幔幕、その下に「め」その左に左右反転した「め」。
 左上の絵馬、左上に紅白黒の幔幕、中央に焦茶色の紋付きに緑色の肌着の前をはだけて豊かな両乳房を露わにした日本髪の女性が、その乳房を両手で挟むようにして、乳首から母乳が迸って、前にある大きな椀に母乳が溜まって湯気を上げている。
 左下の絵馬、上部に紅白黒の幔幕、その下に二股大根。
 白黒のグラビア頁、24頁上に2匹の走る白狐、周囲に宝珠と白梅。
 25頁は肘まで袖を捲った吉田氏の作業姿で、カラー口絵右中の猿の絵柄を描いているところ。縞模様の布を膝に掛けて、どうやら膝を割った正座のようです。吉田氏の前にも同じ絵柄の2枚が見えます。(以下続稿)

*1:この「と」がひしゃげて2画目が右上に跳ね上がっている。