瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

杉村恒『明治を伝えた手』(3)

 5月16日付(2)の続き。
 160頁までのグラビア頁に続いて、161~200頁、解説「職人の世界」と201~202頁「あとがき」がある。
 161頁(頁付なし)解説の扉。左側に二重線の枠(16.2×4.0cm)があって、明朝体縦組みで、上部中央に大きく「職人の世界」下部中央にやや大きく「杉村 恒」。前後の頁は白紙。
 163頁は最初5行分空白で、前置きに当たる文章。
 164頁はまづ3行取り1字下げでやや大きく「職人の世界」。これが1章めで169頁12行めまで。1頁18行、1行52字。
 2章め、169頁13行め~181頁9行め「伝統の復活と維持」
 3章め、181頁10行め~188頁2行め「技術は承けつがれる」
 4章め、188頁3行め~195頁「〝戦場の村〟に残る伝統工芸」
 5章め、196~200頁10行め「〝カメラの世界〟がとらえたこと」
「あ と が き」は1行39字で上下余白を広く取ってある。「昭和四十四年五月」付。
 まづ、解説の1章めと「あとがき」から、本書の意図と成立について述べたところを見て置こう。――「あとがき」201頁2~8行め、

 この写真集はおもに東京とその周辺から取材した。中に一部平安朝の歴史を伝え、その/まま京都に定着していると思えるものは京都及び奈良から取材した。しかし、そのほとん/どを東京近辺よりとりあげた理由は「江戸の文化」を伝えて来た手仕事の伝統が、近代化/してゆく都会の中でも亡ぶことのなかった現実と、伝統の中に仕事をしている人間の精神/の最も大事な面がどの程度残っているのか、今後のわれわれの生活の上に必要なものかど/うか、また影響をどのように与えているのかを知りたかったと同時に、都会では最も早く/滅びるであろうものをせめて写真によってでも残しておきたいと思った。


 これで撮影地域の選択理由はほぼ判明する。もちろん、杉村氏の仕事場と出身地もこの選択に影響しているであろう。「あとがき」の次に横組みの奥付があるが、その上部左寄せで、

杉村 恒*1
1926年奈良市に生る。49年東京美術学校(現東京/芸術大学)卒業。58年米国大使館U. S. I. S. に/てザ・ファミリー・オブ・マンの日本展に参画。/64年同退館後,フリーランスカメラマンとして出/発後,スギムラスタヂオを創設し現在に至る。
日本写真家協会会員。多摩美術大学付属芸術学園/講師。日本写真学園講師。
著書―写真集「女流」「人間国宝伝統工芸」ほか
スギムラスタヂオ
東京都千代田区神田神保町 3―4(九段下ビル)

との著者紹介があるが、杉村氏は関西出身で、九段下ビルにスタジオを構えていた。
 杉村がいつまで九段下ビルにスタジオを構えていたのか、私がこのビルの前を何度か通ったのはもちろん杉村氏の歿後で、歯医者の前の鳥籠にいる白い鸚鵡に会うのが楽しみだった。余り可愛いとは思わなかったが。しかし、足が遠退いているうちに解体されてしまった。
 杉村氏は昭和39年(1964)にフリーランスになっているが、それからしばらくして職人の撮影を始めたようである。解説1章め168頁13行め~169頁3行め、

 この仕事をしようと意図したのは四年前からで、そこには写真家として、撮影された人々への無数の問いかけがあ/って、それがどの時点で成功しているのか、どこで失敗しているのか、私には分らない。この人達を撮影し、フイル/ムにおさめてゆく作業の是非は別におくとしても、金属のシャッターの音や、家中を照らすライトの明りは、時とし/て心で物をみつめ、それを手に伝えて仕事をする人達の気持をいたく傷つけ驚かすこともあった。


 著者紹介にある著書の『人間国宝伝統工芸』は昭和42年(1967)刊、有名人から始めて次第に拡げて行ったのであろう。なお、本書に使用されている八丈島での撮影は、昭和47年(1972)刊『八丈島 流人島の風土と人間』に活用しているようだ。
 解説1章め、168頁8~9行めに、

 私はこのような人達を探し尋ねて現在でも撮影をつづけている。何故撮影するのか。それはとりもなおさずわずか/の年代のうちに日本本来の伝統である手仕事の実態が衰微してしまったからである。‥‥

とあり、また「あとがき」202頁6~8行めに、

 この写真集に登場された方々はいずれも伝統を守る人達であるが、まだ多くの〝手〟を/育てている職人や芸人がいるに違いない。かくれた名人を御存じの方があれば是非お知ら/せいただきたいと思う。

とあって、杉村氏は本書刊行後もこのテーマの撮影を続けていたらしいのだが、写真集に纏められることはなかったようだ。(以下続稿)

*1:ルビ「すぎむら  つね」。