瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

山岳部小史(1)

 昭和63年の秋、県立K農業高校の国語科教諭、輿水興三は見知らぬ差出人からの分厚い封書を受け取った。
 差出人に見覚えはないが、その住所であるT市には所縁がある。というのも20代の後半、興三はT市に新設された県立高校にやはり国語科の教諭として勤め、山岳部の顧問をしていた。だから当時担任をしていた教え子や、山岳部員など今もT市に残っている連中からの来信も少なくない。いずれその関係だろうと思いながら、開封してみた。
 入っていたのは、藁半紙に刷った「山岳部小史」だった。B5判袋綴じ50頁ほどでホチキスで留めてある。「――誤解と迫害の二十五年史」という副題があるのに思わず苦笑した。発行はもちろんT高等学校山岳部で、生徒会誌や部室に残っている資料を元に、副部長のKという二年生、すなわち封書の差出人が纏めたものらしい。送料を節約するために3つ折にして定型郵便にしてあったが重量が超過していた。
 別に5枚ほどの便箋がやはり3つ折で入っていた。
 まず自己紹介があって、それから部室にあった、興三の転任挨拶の手紙によって、興三の自宅住所を知ったことが断ってあった。
 そして、要件として部史編纂のため、現在連絡が付かなくなっているOBの連絡先を御教示願いたい、とあった。
 なぜこんなことを思い付いたのか、については、――目下、山岳部は南館の階段下の窓のない倉庫を部室としているため、一般生徒たちから怖がられ、実際汗と灯油の臭いが酷いので、甚だ人気がない。我々の代は5人いるが、今年度の新入部員勧誘に失敗した。新歓山行のために準備した古い机や椅子を鉞で割って拵えた薪を、そのままKヶ岳の裏の河原に運んで、放課後に二年生部員だけで燃やした。つまり、キャンプせずにファイアだけ、明るい中で燃える火を皆で黙って見詰めて、ひどく虚しくなった。以後、部も開店休業状態で、夏山合宿には部員3人と顧問2人で白根三山を縦走したが、とにかくすることがなくて暇なので、部の歴史を調べている。
 そして創部当時の記録を掘り出して、輿水先生と当時の部員たちが部の在り方を巡って議論した議事録などを眺め、草創期の活気ある姿を憧憬の念を以て眺めている。ついては部の歴史をもっと本格的に調べて纏めたい希望を抱くに至った。
 しかしながら、14回生と17回生の間で2年ほど部員が殆ど入らなかった時期があって、それより以前のOBとは断絶したようになっている。そこで、古い時期のことを調べたいので、創部当時の顧問であられた輿水先生にお伺いする次第である。
 そんなようなことが、少し癖のある筆跡のブルーブラックの万年筆で綴られていた。
 同封の「小史」の副題に「誤解と迫害の」といっているのは、この部室のために敬遠され、あらぬ噂を立てられていることを指しているらしかった。
 今だったら個人情報保護法などの問題があるから、興三から一々元部員たちに連絡を取った上で、快諾した者の連絡先だけ教えることになったであろうが、当時はそのような気遣いは無用だったので、――T高校は若い時期の5年間を過ごしたので特別な懐かしさがある。部史を纏めようという気持ちは本当に有難く、協力は惜しまないつもりだけれども、高校は3年間しかないから今からそんなことをしていると受験に失敗してしまいますヨ、といったことを認めた手紙を用意した。そして翌日、勤務の合間に学校でOB会名簿の複写を取って、帰り掛けに郵便局に寄ってK宛に発送した。
 帰宅すると早速、今でも連絡を取っている何人かの元部員に、現役の生徒からこのような連絡があった、受験を控えた身の上であるから程々に、と釘を刺して置いたけれども、もし何か言ってきたら協力して欲しい、といったことを葉書にさっと認めて、ちょうど高校バレー部の練習を終えて帰ってきた娘に、もう一走りしてきてくれ、と言って投函を頼んだ。
 そして、改めてOB会名簿を眺め、それから当時のアルバムを引っ張り出すと、25年前のT高校での日々が鮮やかに蘇ってきた。(以下続稿)