瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

芥川龍之介「尾生の信」(3)

 昨日の続きで、芥川が参照したらしい支那奇談集 第二編の「尾生の信」を見て置こう。3頁ある「目次」に拠れば58篇を収めるが、その43番め、3頁上段5行めに「尾生の信 ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥二二九」とある。
 229~231頁「 尾 生 の 信 *1」、題は3行取り4字下げで波線で囲ってある。

 勇には暴虎馮河の勇といふのがあるし、仁には宗襄の仁といふのがある。共に/其眞意義を誤つた事に、使はれてゐる。尾生の信といふのも同じく其で、正直の/上へ馬鹿の冠を蒙せる時と似たやうな意を示してゐる。尾生とばかりで其名は傳/はらぬが、生としてある處を見ると、書生に違ひない。今時書生といへば、直ぐ/にロマンチツクといふ言葉を思ひ出させるが、尾生の信も中庸を得てゐないだけ/に餘程ロマンチツクである。一體ロマンチツクといふ言葉には必ず女がついて廻/るとのことであるが、其尾生といふ男も猶且或女と關係してゐた。けれども餘程世/間を憚からねばならぬ關係であると見えて、逢瀬を得るのは中々容易でなかつた/*2【229】らしく、或日、女と橋の下で逢はうと約束をしたのである。逢ふ處は未外に澤山あ/つたらうが、橋の下とは奇想天外である。尾生は後に名を殘すだけあつて、信義/の堅い男であるから、約束の時刻をたがへず、其橋の下へ行つて見たが、幸に引/汐であつたから、砂が露はれて、散歩などが出來る位、其は至極結構だが、待て/ど暮らせど女は皆暮姿を見せぬ。尾生は氣が氣でない。其内追々と上げ汐となつ/て、水の音はもの凄くなつて來る。散歩の砂地は段々と迫まつて來る。大體な者/なら其處で腹を立てゝ、歸つて了ふのだが、遉はロマンチツクの尾生である。橋/柱に抱着いて、一生懸命に女の來るのを待つてゐた。如何な醉狂な女でも橋梁の/上で遘曳をしようとは思ふまい。果して女は來なかつた。*3
 すると其内に水嵩は増して來て、尾生は女の代りに橋梁を抱いたまゝ、生命を/すてゝ其信義を全うした、と傳へられる。子猶といふ男が之を評して、萬世情痴/*4【230】の祖なり、と云つたが、全く其評は當つてゐる。*5


 「宋襄の仁」を「宗襄の仁」と誤っている他、ルビに若干の誤植がある。
 全体的に皮肉な調子である。ここで注目されるのは、尾生が女を待っていた橋の下は「引汐」で「散歩の砂地」が露出していたが、「上げ汐」で水没するとともに尾生も溺れ死んだことになっている。しかし、大潮のときなど場所によっては相当な水嵩になるが、潮の干満は日に2回だから、逃げられないほど急な上昇ではないだろう。だからどうも「奇想天外」な気分にさせられるのだが、確かにこの潮汐の影響を受ける橋の下、と云う設定は、芥川の「尾生の信」がそのまま使っている、と云って良さそうだ。
 なお、最後の評の子猶は明末の馮夢龍(1574~1646)の字、尾生を取り上げたのはその編むところの『情史』巻七「情痴類」で、長短18項の11番め、引用は維基文庫(Wikisource)に拠る。

尾生與女子期於梁、女子不來、水至不去、抱樑柱而死。子猶曰、此萬世情痴之祖。


 潮の干満にせよ増水にせよ、こんな死に方をしたのは確かに「情痴」としか云いようがない。(以下続稿)

*1:ルビ「び ・せい・しん」。

*2:ルビ「ゆう・ぼうこ へうが ・ゆう・じん・そうじやう・じん・とも/そのしんい ぎ ・あやま・こと・つか・び せい・しん・おな・それ・しやうじき/うへ・ば か ・かんむり・き ・とき・に ・い ・しめ・び せい。そのな ・つた/せい。ところ・み ・しよせい・ちが・いまどきしよせい・す /ことば ・おも・だ ・び せい・しん・ちうよう・え /よ ほど・たい・ことば ・かなら・をんな・まわ/そのび せい・をこと・や はりあるをんな・くわんけい・よ ほどせ /けん・はゞ・くわんけい・み ・あふせ ・う ・なか/\ようい 」。

*3:ルビ「あるひ・をんな・はし・した・あ ・やくそく・あ ・ところ・まだほか・たくさん/はし・した・き そうてんぐわい・び せい・のち・な ・のこ・しんぎ /かた・をとこ・やくそく・じ こく・そのはし・した・い ・み ・さいはひ・ひき/しほ・すな・あら・さんぽ ・で き ・くらゐ・それ・し ごくけつこう・ま /く ・をんな・かいくれすがた・み ・び せい・き ・き そのうちおひ/\・あ ・しほ/みづ・おと・すご・く ・さんぽ ・すなぢ ・だん/\・せま・く ・たいてい・もの/そ こ ・はら・た ・かへ・しま・さすが・び せい・はし/ばしら・だつき・しやうけんめい・をんな・く ・ま ・い か ・すゐきやう・をんな・はしばしら/うへ・あひびき・おも・はた・をんな・こ 」。

*4:ルビ「そのうち・みづかさ・ま ・き ・び せい・をんな・かは・はしばしら・だ ・いのち /そのしんぎ ・まつた・つた・し いう・をとこ・これ・ひやう・ばんせいじやうち」。

*5:ルビ「そ ・い ・まつた・そのひやう・あた」。